小説置き場
NIGHTGLASS 刈谷 燐

第2話「死んだ女に似ている」

3,300文字 約7分

#02 死んだ女に似ている

 月曜日の朝、工藤は事務所のデスクに座って金曜の動画を再生していた。画面は暗い。ノイズが乗っている。だが倉庫C-7の搬入口に向かう三人の作業者と、銀色のケースを積み込むバンの輪郭は確認できた。証拠としては弱いが、報告の裏付けにはなる。

 問題はもう一つの映像だ。女が映っていない。

 工藤は動画を巻き戻して何度も確認した。女が立っていたはずの場所——倉庫の壁際——には、暗闇しか映っていない。カメラの画角には入っているはずだ。工藤が振り返ったとき、女は倉庫の壁に寄りかかっていた。その位置は動画のフレーム内にある。なのに映っていない。

 暗くて見えないだけかもしれない。スマホのカメラは夜間撮影に弱い。黒いコートを着た人間が暗がりに立っていれば、映らなくても不思議ではない。そう自分に言い聞かせたが、腹の底の違和感は消えなかった。

「工藤」

 白坂が奥のデスクから声をかけた。白坂透、四十二歳。SRJの副所長で、工藤の直属の上司にあたる。銀縁の眼鏡をかけた穏やかな顔だが、目だけが常に冷静な温度をしている。十五年のキャリアで、裏社会のフロント企業から大手の不正会計まで幅広く手がけてきた男だ。

「金曜の件、報告書は」

「書いてます。今日中に出します」

「口頭でいい。先に聞かせろ」

 工藤はノートを開いた。メモは手書きにする癖がある。デジタルのほうが整理しやすいのは分かっているが、書く動作が思考を整理してくれる感覚があって、やめられない。

「二十二時四十分頃、倉庫C-7ブロックで予定外の荷揚げ作業を確認しました。作業者三名、車両二台。銀色のケース二つを搬出。ナンバーは部分的にしか読めていません」

「動画は」

「あります。ただ画質が悪くて、証拠能力は低いです」

「ケースの中身は」

「不明です。サイズはトランク程度。重量は——三人で持ち上げていたので、それなりにあると思います」

 白坂はコーヒーカップに口をつけた。SRJの事務所のコーヒーは白坂が毎朝自分で淹れる。豆はコロンビアの中煎りで、ドリッパーはカリタ式。白坂のコーヒーの淹れ方を見ていると、調査の手順と似ていることに気づく。正確な温度、正確な分量、正確な時間。手順を守ることが品質を守る。

「それだけか」

 工藤は一瞬迷った。女のことを言うべきか。動画にも映っていない、名前も知らない女。報告書に書ける情報がほとんどない。「現場で不審な女性を目撃した」とだけ書いても、白坂は「で?」としか言わないだろう。

 だが言わないわけにもいかなかった。あの女は荷揚げ作業を見ていた。しかも工藤が撮影していたことを知っていた。関係者だ。どちら側の関係者かは分からないが、無関係ではない。

「もう一つ。現場に女がいました。二十代後半から三十前後。黒いコート。俺が撮影していたことを知っていて、声をかけてきた」

「何と」

「『あんた、撮ってたでしょう』と。それだけ言って消えました」

「消えた?」

「いなくなったんです。足音もなく」

 白坂が眼鏡の位置を直した。考えているときの癖だ。

「顔は見えたか」

「下半分だけ。ナトリウム灯の光で。それと——」

 工藤は言葉を選んだ。「死んだ人間に似ている」とは、普通の報告書に書く文面ではない。だが工藤は金曜の夜から帰宅した後、気になって調べていた。あの顎の線。あの口元。あの声の質感。記憶のどこかに引っかかって、土曜日の午後をまるごと使ってネットの海を掘った。

 見つけたのは、二年前のニュース記事だった。

 警視庁の女性警察官が任務中に殉職。名前は篠宮梓、当時二十七歳。所属は公安部の外事課——外国関連の事件を扱う部署だ。記事には顔写真はなかったが、別の記事で警察学校の卒業写真の集合写真が使われていて、その中に「篠宮」の名札をつけた女性がいた。画質は粗い。確定はできない。だが、顎の線が似ていた。

「その女、二年前に殉職した元刑事に似てるんです。篠宮梓。公安部外事課」

 白坂のコーヒーカップが止まった。

 三秒。白坂が黙る三秒は長い。普段は一秒で返事が来る男だ。

「工藤」

「はい」

「死人に似てる人間なんか、いくらでもいる」

 それだけ言って、白坂はコーヒーを飲み干した。カップを置く音がやけに大きかった。

「帳簿の不整合のほうを詰めろ。C-7の搬出記録と到着記録の突き合わせ。それと、あの倉庫を借りてる会社の登記情報を引っ張れ。今週中だ」

「……はい」

「女のことは報告書に書くな。今のところは」

 工藤はノートを閉じた。白坂が「書くな」と言ったのは初めてだった。普段は「見たことは全部書け。判断は俺がする」が口癖の男だ。それなのに今日は「書くな」と言った。

 女のことを、ではない。「今のところは」と言った。つまり白坂は、書くタイミングが来ると思っている。今はまだ早い、と判断しただけだ。

 白坂は何かを知っている。

 あるいは、知らないまでも、嗅いでいる。篠宮梓という名前に、白坂は反応した。コーヒーカップが止まった三秒間に、白坂の頭の中で何かが回っていた。

 工藤は自分のデスクに戻って、パソコンを開いた。倉庫C-7の搬出記録を呼び出す。数字が並ぶ。退屈な作業だ。だが退屈な数字の中にこそ、嘘は隠れる。

 三十分ほど画面と向き合って、一つ見つけた。C-7の賃借人は「東洋第一倉庫管理株式会社」。登記簿を引くと、設立は二年前。資本金は百万円。役員は一名。本店所在地は港区の一室で、バーチャルオフィスの住所だった。実体のないペーパーカンパニーだ。

 さらに掘ると、この会社の役員名義で別の法人が二つ登記されていた。どちらも港湾周辺の倉庫を借りている。三社とも決算公告がない。税務申告はしているのかすら怪しい。

 工藤はノートに図を描いた。三社の名前を三角形に配置し、線で繋ぐ。真ん中に「役員A」と書く。このAが全てを動かしている。Aの名前は——ここで止まった。登記簿の名前が本名かどうかは、登記簿だけでは分からない。

 昼休み、コンビニでサンドイッチを買って事務所に戻った。同僚の三島が「お前、金曜どこ行ってたんだ」と聞いてきたが、「張り込み」とだけ答えた。三島は「マジか、ご苦労さん」と笑って終わりだ。SRJの社員は互いの案件に深入りしない。それが暗黙のルールだった。

 午後、工藤はもう一度篠宮梓の情報を調べた。殉職の記事は二年前の三月付で、詳細は伏せられていた。「公務中の事故」としか書かれていない。公安部外事課の警察官が公務中に死ぬ。事故とは何だ。車両事故か。現場の事故か。記事のどこにも書いていない。

 警察が詳細を伏せるのは珍しくない。捜査中の事件に関わっていた場合、殉職の経緯を公開することは捜査妨害になりうる。だが二年経っても詳細が出ていないのは、事件がまだ終わっていないか、最初から公開する気がなかったかのどちらかだ。

 工藤はメモに書いた。「篠宮梓。公安部外事課。2023年3月殉職。事故の詳細不明。顔写真なし(集合写真のみ)」。その下に「金曜の女との類似点」として、「顎の線」「口元」「年齢層」「声の質感」と並べた。

 書いていて馬鹿らしくなった。死人の顎の線を追いかけてどうする。工藤は調査屋であって、探偵小説の読者ではない。

 だが帳簿の不整合を追えば、消えたコンテナに行き着く。コンテナを追えば、銀色のケースに行き着く。ケースを追えば——あの女に行き着くかもしれない。死んだはずの女に。

 工藤はキーボードを叩きながら、金曜の夜のことを思い出していた。「雑ね」と言ったあの声。低くて、壁に吸い込まれるような声。

 死人は喋らない。だがあの女は喋った。

 白坂の言う通り、死人に似ている人間はいくらでもいる。だが工藤の腹の底には、数字のズレと同じ種類の違和感が沈んでいた。辻褄が合っているのに気持ち悪い。似ているのではなく、同じなのだと、内臓のどこかが告げている。

 定時のチャイムが鳴った。同僚たちが帰り支度を始めている。工藤はスマホの画面を無意識に伏せた。あの動画に映っていなかった女のことを、まだ考えている。

 映っていない人間を追いかけるのは、調査屋の仕事ではない。調査屋は記録に残るものだけを扱う。

 だが記録に残らないもののほうが、たいてい面倒だ。