#01 荷揚げの夜
金曜の夜に埠頭で缶コーヒーを飲んでいる二十三歳は、だいたい人生のどこかでミスをしている。工藤雅之はそう思いながら、防波堤のコンクリートに背中を預けていた。
二月の東京湾は風が冷たい。海の匂いというよりは、重油とコンテナの鉄錆が混ざった工業的な匂いが鼻につく。対岸の倉庫群にはナトリウム灯がオレンジ色の光を落としていて、その下をフォークリフトが時折横切るのが見える。夜の十時を過ぎた港湾エリアは静かだが、完全には眠っていない。どこかで常にエンジンが回り、クレーンが唸り、誰かが荷を動かしている。
工藤の仕事は、その「誰か」を見つけることだった。
セキュリティ・リサーチ・ジャパン——略称SRJ。新宿の雑居ビルの四階に事務所を構える、従業員十一名の企業調査会社。反社チェック、取引先の信用調査、従業員の身元確認、不正の兆候のあぶり出し。華やかさのかけらもない仕事だが、需要だけはある。
工藤がここに来ているのは、クライアントから依頼された港湾物流会社の帳簿に不整合があったからだ。輸入記録と倉庫の在庫が合わない。差分は微小で、通常なら端数処理の誤差で片付けられる程度のものだったが、工藤にはそれが引っかかった。
数字がズレている。ズレているのに、帳簿上では綺麗に辻褄が合っている。
その感覚を、工藤はうまく言語化できない。上司の白坂に報告したとき、「数字が気持ち悪い」としか言えなかった。白坂は眼鏡の奥の目を細めて、三秒ほど工藤を見た。「行ってこい。ただし残業代は出ない」。それが昨日の話だ。
缶コーヒーが冷えている。二本目。自販機は埠頭の入口に一台あるだけで、ここからだと往復で五分かかる。張り込みの基本は「離れないこと」だと白坂に教わった。トイレも缶コーヒーも、現場を離れる理由にしてはならない。だから工藤はペットボトルを一本持ってきている。中身は水ではなく、トイレ代わりだ。調査屋の仕事には、誰にも言えない種類の知恵がいくつかある。
時計を見た。二十二時四十分。もう二時間以上ここにいる。定時の荷揚げ作業は二十一時で終わっていて、それ以降の動きはない。明日の朝まで何も起きないかもしれない。起きなければ報告書に「異常なし」と書いて終わりだ。来週また来ればいい。
帰ろうか、と思った。
思ったとき、倉庫の向こうでライトが動いた。
フォークリフトのヘッドライトではない。車のライトだ。二台分。倉庫と倉庫の間の通路を、低速で移動している。夜の十時四十分に倉庫エリアに車が入ること自体は珍しくない。だが、二台が縦に並んで無灯火に近い減光で走っているのは、見慣れた光景ではなかった。
工藤はスマホを出した。カメラアプリを起動して、望遠に切り替える。画面の中で車が停まった。白いバン。後続は黒のセダン。ナンバーは——遠すぎて読めない。
バンの後部ドアが開いた。人が降りてくる。三人。作業着を着ている。だがヘルメットは被っていない。深夜のコンテナヤードでヘルメットなしは違反だ。管理会社が知っていてやらせているなら、管理会社も噛んでいる。
三人が倉庫の搬入口に向かった。鍵を開ける。慣れた手つきだ。合鍵を持っている。
工藤はコンクリートの壁に身を隠しながら、倉庫の番号を確認した。C-7。クライアントの物流会社が借りている倉庫のひとつだ。帳簿の不整合が出ていた倉庫と同じブロックにある。
心臓が速くなっている。調査屋として張り込みは何度かやったが、実際に「現場を見る」のは初めてだった。これまでは書類の数字と画面上のデータを突き合わせるデスクワークが中心で、夜の埠頭に一人で座っているのも今日が初めてだ。
スマホのカメラで動画を撮り始めた。手が少し震えている。寒さのせいだと思いたかったが、たぶん違う。
倉庫の中から明かりが漏れた。懐中電灯。作業が始まっている。何を運び出しているのかは見えない。だが三人の動きは効率的で、迷いがなかった。何度もやっている動きだ。
十五分ほどで作業が終わった。三人がバンに荷物を積み込む。大きさはトランクほど。二つ。銀色のケースに見えた。
バンのドアが閉まる。セダンが先に動き出し、バンが続く。二台とも減光のまま、倉庫エリアの外へ向かっていく。
工藤は動画を止めた。録画時間は十七分。画質は悪い。夜間のスマホ撮影では証拠としての価値は低い。だがナンバーの一部と倉庫の番号、作業者の人数と服装は記録できている。
報告書に「異常なし」とは書けなくなった。
立ち上がろうとしたとき、背後で足音がした。
振り返った。暗い。防波堤の向こうは海で、こちら側には誰もいないはず——
人影があった。倉庫の壁に寄りかかるようにして、女が立っていた。
黒いコート。髪は肩より少し長い。顔の上半分が倉庫の影に沈んでいて、下半分だけがナトリウム灯のオレンジに照らされている。口元は薄く、顎の線がはっきりしている。年齢は工藤より上に見える。二十代後半か、三十手前か。
足音に気づかなかった。工藤は張り込み中、周囲の音には注意を払っていたはずだ。それなのに、この女がいつからここにいたのか分からない。
女は工藤を見ていた。見ている、というよりは、値踏みしている目だった。工藤の足元から顔まで、一秒で全身を読み取るような視線の動き方。
嫌な感じがした。
工藤の中の何かが反応している。腹の底が冷える感覚。言葉にならない違和感。この女には、何かがズレている。立ち方が自然すぎる。呼吸が見えない。二月の夜に白い息が出ていない。
気のせいかもしれない。暗いだけかもしれない。
女が口を開いた。
「あんた、撮ってたでしょう」
声は低かった。響かない声。壁に吸い込まれるような質感がある。
「……誰ですか」
「質問してるのはこっち。あんた、誰の指示で撮った」
工藤はスマホをポケットに入れた。逃げるべきだと頭が言っている。だが足が動かない。怖いからではなく——いや、怖い。怖いのだが、それ以上に、この女の「ズレ」が何なのか知りたかった。
調査屋の悪い癖だ、と工藤は思った。
「仕事です。企業調査」
「企業調査」女が微かに目を細めた。暗くて見えなかったはずの目元が、一瞬だけ見えた気がした。「——雑ね」
それだけ言って、女は倉庫の影に溶けるように消えた。足音はなかった。
工藤はしばらくその場に立っていた。心臓が鳴っている。缶コーヒーの缶を握りしめていることに気づいて、指を緩めた。アルミが歪んでいた。
帰り道、社用車のヒーターを全開にしながら、工藤は今見たものを整理した。
深夜の荷揚げ。合鍵を持つ三人の作業者。銀色のケース二つ。倉庫C-7。減光で走る車二台。そして足音のない女。「雑ね」と言い残して消えた、白い息の見えない女。
首都高に乗った。深夜の高速は空いていて、テールランプの赤い列が遠くまで続いている。フロントガラスに映る自分の顔が、ナトリウム灯のオレンジ色に染まっていた。埠頭の色だ。
スマホの動画を確認した。信号待ちの間に再生すると、暗い画面の中でぼんやりと動く人影が映っている。画質は悪い。だが倉庫の番号と作業者の人数だけは確認できる。白坂に見せれば、次の一手を判断してくれるだろう。
帳簿の数字のズレは、まだ解決していない。
だが今夜、ズレはもうひとつ増えた。あの女だ。あの女の何がズレていたのか、工藤にはまだ言葉にできない。ただ腹の底に残った冷たさだけが、「あれは普通じゃない」と告げている。