小説置き場

第9話「記憶の穴か」

1,912文字 約4分

昨日の夕食を、蓮は思い出せなかった。

 ネットカフェのブースで目を覚ましたのは午前七時で、体は休まっているはずなのに頭の芯が重い。リクライニングチェアから体を起こして、昨夜のことを思い返そうとした。このネットカフェに入ったのは夜の九時頃だったはずだ。その前に何か食べた。何を食べたのか——コンビニのおにぎりか、カロリーメイトか、それとも百円のカップ麺か。

 どれだったか、思い出せない。

 些細なことだ。昨日の夕食を覚えていないくらい、普通の人間でもある。疲れていれば記憶は曖昧になるし、毎日同じようなものを食べていれば日にちの区別がつかなくなる。蓮の食事はここ二週間ずっとコンビニ食の繰り返しだから、昨日と一昨日が混ざるのは当然だ。

 でも蓮は、これまで昨日の食事を忘れたことがなかった。

 空腹の記憶は体に残る。何を食べたかではなく、どれだけ腹が減っていたか、食べた後にどれだけ楽になったか。蓮にとって食事は楽しみではなく、体を動かすための燃料補給だった。だからこそ覚えている。いつ補給したか、次の補給までどれだけ持つか。それは生存に関わる情報だ。

 その情報に穴が空いている。小さな穴だが、蓮はそれを無視できなかった。

 工場跡地の夜。あの後も、記憶が少しだけ曖昧になった感覚があった。追手から逃げて、コンビニでおにぎりを買って、川崎を歩いた——その順番は覚えている。でも、歩いている間に何を考えていたのかがぼんやりしている。歩いた時間の感覚が短い。三時間歩いたはずなのに、記憶の中では一時間くらいに感じる。

 そして昨日。袋小路で追手に囲まれて、スマホを握って、相手のスマホが誤動作して、逃げた。その後にノイズが走った。視界の右端に灰色の粒子が散った。あれは初めてだった。耳鳴りはあったが、目に来たのは初めてだ。

 ノイズは消えた。でもその代わりに、昨日の夕食が消えた。

 蓮はドリンクバーでホットのコーンスープを取ってきて、テーブルの上に置いた。紙コップから立ち上る湯気をぼんやり見ながら、自分の記憶を点検した。今朝の目覚め、覚えている。昨夜このブースに入ったこと、覚えている。その前に歩いていたこと、覚えている。夕食。空白。その前の午後、追手から逃げたこと、覚えている。

 空白は夕食のところだけだ。ピンポイントで一つだけ穴が空いている。

 怖いのは、穴の大きさではなかった。穴があること自体が怖かった。次はどこに穴が空くのか。朝食か。誰かとの会話か。自分の名前か。

 蓮はコーンスープを一口飲んだ。熱い。舌が焼ける感触がはっきりある。この感覚は本物だ。今この瞬間は確かに存在している。でも明日の朝、この瞬間を覚えているかどうか。

 ポケットの中のスマホに手が伸びかけて、蓮は自分の手を止めた。触りたくなかった。触れば安心する。安心するから触る。触るたびに何かが起きて、何かが起きるたびに記憶に穴が空く。もしそういう仕組みだとしたら——

 蓮は手を膝の上に置いた。スマホには触れない。今日は触れない。

    *

 同じ日の午後、東京都文京区の閑静な住宅街にある古い洋館で、一通の報告書が提出されていた。

 報告書の書式は統一されている。A4用紙一枚。上部に日付と報告者のコードネーム、中央に観測データ、下部に所見。報告者のコードネームは「桜七号」。所属は観測部。年齢は二十代半ば。

 報告書の内容は以下の通りだった。

「四月十五日から四月二十二日にかけて、東京都南部から北東部において、局地的な因果偏差が計四件観測されました。偏差の強度はいずれもDクラス——すなわち、自然発生の確率偏差としては説明困難なレベルです」

「具体的には、四月十五日の川崎市臨海部において歩行者の転倒と商業施設従業員の行動タイミングが重畳的に偏差。四月十七日の足立区において交通信号の切り替わりタイミングと歩行者の移動パターンに微小偏差。四月二十二日の荒川区において携帯端末の予期しない誤動作と建造物の構造的偶発事象が重畳的に偏差」

「偏差の発生源は移動しています。移動パターンから推定して、単一の保持者が存在する可能性が高いと判断しました。保持者の特定には至っていません」

 報告書の最後に、一行だけ手書きの注釈が加えられていた。

「偏差の性質は八咫に類似。依代の移行が完了している可能性あり。至急の対応を具申します」

 報告書を受け取ったのは、観測部の上席にあたる男だった。四十代。短髪に白髪が混じり始めている。報告書を読み終えると、彼は書類を裏返してデスクに置いた。

「移動しているなら、追えるな」

 独り言のように呟いて、内線を取った。実動部に繋がるまで三十秒。

「御剣。仕事だ」

 受話器の向こうから、低い声が一言だけ返った。

「了解」