見つかったのは、油断したからだった。逃亡から十日目の午後、蓮は荒川沿いの遊歩道を歩いていた。天気が良かった。四月の終わりの日差しは夏の手前の強さを持っていて、川面に反射する光が白く跳ねている。河川敷では犬を散歩させている老人や、ジョギングをしている若い女性がいた。穏やかな風景だった。
蓮はその穏やかさに気を抜いた。フードを下ろしていた。日差しが暑くて、つい下ろしてしまった。それが致命的だった。
対岸の橋の上に、男が二人立っているのが見えた。こちらを見ている。双眼鏡ではない。スマホだ。一人がスマホを蓮の方向に向けていて、もう一人が何かを確認するように覗き込んでいる。写真を撮られている。あるいは写真と照合されている。
蓮の体が先に反応した。フードを被り、歩く方向を変え、遊歩道から住宅地への階段を駆け上がった。振り返らなかった。振り返れば、追ってきているかどうかが分かる。だが振り返った瞬間に足が止まる。足が止まったら追いつかれる。
住宅地に入った。狭い路地を選んで走る。蓮の足は速くないが、路地の曲がり方と行き止まりの見分け方は体に染みついている。塀の高さ、路地の幅、抜け道になりそうな隙間。それを瞬時に判断しながら走った。
三分ほど走ったところで、足音が聞こえた。後ろから二人分。走っている。追いつこうとしている。蓮は速度を上げたが、息が切れ始めていた。十日間のネットカフェ生活でカロリーメイトとおにぎりしか食べていない体に、全力疾走の持久力はない。
路地を二つ曲がった先が、袋小路だった。
コンクリートブロックの塀が三方を囲んでいる。高さは二メートル以上。蓮の身長では届かない。ゴミ置き場の金網フェンスがあるが、登るには時間がかかりすぎる。
詰んだ。
背後で足音が近づいてくる。蓮は振り返った。路地の入口に二人の男が現れた。橋の上にいた二人だ。息を切らしている。一人は三十代前半で、グレーのパーカーを着ている。もう一人は蓮と同年代に見える若い男で、赤いスニーカーが目立った。
二人とも手に武器は持っていなかった。だが蓮との体格差は明らかで、一対二では逃げ場がない。
「瀬戸蓮だな」
グレーのパーカーの男が言った。蓮の名前を知っている。写真だけではなく、名前も共有されている。
蓮は答えなかった。背中がブロック塀に当たっている。左右は塀。前は二人の男。上は空だが、飛べるわけがない。
ポケットに手を入れた。右手が壊れたスマホを掴んでいた。また手が勝手に選んだ。使い捨ての端末ではなく、こちらを。
冷たい。指先が痺れるほどの冷たさが掌に広がった。蓮はスマホを引き抜かなかった。ポケットの中で握ったまま、二人の男を見ていた。
グレーのパーカーの男が一歩近づいた。
そのとき、赤いスニーカーの男のポケットでスマホが鳴った。着信音ではない。アラーム音だ。大音量で、しかも途切れずに鳴り続けている。男が慌ててポケットからスマホを取り出したが、画面が点滅していて操作を受け付けないようだった。
「なんだこれ——」
男がスマホの画面を叩いている。アラーム音は止まらない。画面に意味不明な文字列が次々と表示されている。
グレーのパーカーの男が舌打ちをして赤スニーカーの男に近づき、スマホを覗き込んだ。二人の注意が蓮から逸れた。五秒。蓮が動けるのは五秒だけだ。
蓮はゴミ置き場の金網フェンスに飛びついた。手が金属の網に食い込む。足をかけて体を持ち上げる。フェンスが揺れて金属音が鳴った。二人が振り返る。だが蓮はもうフェンスの上端に手をかけていた。
体を引き上げ、フェンスの向こう側に落ちた。着地の衝撃が膝に走る。まだ治りきっていない右膝が悲鳴を上げたが、構わず走った。ゴミ置き場の裏は別の路地に繋がっていて、そこを抜ければ大通りに出られる。
走った。後ろでフェンスを揺らす音がしたが、追手が乗り越えるには蓮よりも大きな体を持ち上げなければならない。その数秒の差で蓮は路地を抜け、大通りに飛び出した。人通りがあった。蓮は速度を落として歩き始め、人の流れに紛れた。
フードを深く被る。息が荒い。心臓が喉の奥で暴れている。手のひらが汗で濡れていて、ポケットの中のスマホがその汗を吸って、なお冷たかった。
大通りを百メートルほど歩いたところで、視界にノイズが走った。
テレビの砂嵐のような灰色の粒子が、視野の右端にちらついている。蓮は立ち止まって目をこすった。ノイズは三秒ほどで消えたが、その間、右目で見る世界だけが微妙にブレて見えた。左目は正常だった。右目だけが、一瞬だけ別の場所を見ていたような感覚。
蓮は壁に背をつけて、呼吸を整えた。
偶然じゃない。
初めて、はっきりとそう思った。工場跡地で追手が転倒したのは偶然かもしれなかった。商店街で信号の色が変わったのは気のせいかもしれなかった。でも今のは違う。あの男のスマホが、何の脈絡もなく誤動作した。あのタイミングで。蓮が追い詰められたまさにそのタイミングで。
偶然はある。でも偶然が三度続くのは、もう偶然ではない。
蓮の右手はまだポケットの中のスマホを握っていた。冷たさは少しだけ和らいでいたが、完全には消えていない。蓮はゆっくりと手を開き、スマホから指を離した。
怖かった。追手が怖いのではない。自分のポケットに入っているものが怖かった。この壊れたスマホは、蓮が追い詰められるたびに何かをしている。何をしているのかは分からない。分からないことが、一番怖い。
でも捨てられなかった。捨てたら、次に追い詰められたときに助からないかもしれない。助からない恐怖と、助かる理由が分からない恐怖。二つの恐怖に挟まれて、蓮はスマホをポケットに入れたまま、大通りを歩き続けた。
右目のノイズは消えていた。でも視界の隅に、何かが残っている気がした。見えない汚れのような、拭いても取れない曇りのような。蓮は何度か瞬きをして、それが消えたのか消えていないのか確かめようとしたが、確かめる方法が分からなかった。