小説置き場

第7話「偶然はあるか」

2,359文字 約5分

逃げ方には法則がある、と蓮は三日目の夜に気づいた。法則というほど大層なものではない。ネットカフェを出て次のネットカフェに移るまでの間に、蓮が自然にやっていることを言葉にしただけだ。コンビニに入るときは帽子を目深に被る。キャッシュレス決済は使わない。交通系ICカードも使わない。全て現金。移動するときは大通りを避けて裏道を選ぶ。同じ店に二度行かない。同じネットカフェに二泊しない。

 どれも誰かに教わったわけではなかった。トクリュウの仕事で「痕跡を消す」ことをやっていた蓮の体が、今度は自分の痕跡を消すために動いている。ガムテープの切れ端を拾い、足跡を靴底で均していたのと同じ要領だ。自分が通った場所に、自分がいたことを示すものを残さない。

 問題は金だった。

 一万三千円から始まった逃亡資金は、三日目の時点で七千円を切っていた。ネットカフェの宿泊代、食事、日用品。特に贅沢はしていない。カロリーメイトとコンビニのおにぎりが主食で、飲み物はネットカフェのドリンクバーで済ませている。それでも一日二千円前後は消えていく。あと三日もすれば底をつく。

 金を稼ぐ方法を考えなければならなかった。だが蓮には身分証がない。まともなアルバイトはできない。日雇いの現場仕事なら身分証不要のところもあるが、人に顔を覚えられるリスクがある。蓮を探している人間がどこにいるか分からない以上、知らない人間の前に顔を晒すことは避けたかった。

 四日目の朝、蓮は足立区のネットカフェを出て、北に向かって歩いた。昨夜とは別の店に移動するためだ。朝の八時を少し過ぎた時間帯で、通勤の人々が駅に向かって流れている。蓮はその流れに逆行するように歩いた。人混みに紛れるのは得意だが、流れと同じ方向に歩くと駅の改札や監視カメラの密集地帯に吸い込まれてしまう。

 商店街を抜け、住宅地に入り、もうひとつ商店街を横切った。蓮は歩きながら監視カメラの位置を数えていた。コンビニの入口に一台、信号機の柱に一台、マンションのエントランスに一台。この一画だけで三台。どのカメラが録画しているのか、どれがダミーなのかは分からないが、レンズが向いている方向だけは避けて歩くことができる。

 それも掃除屋の仕事で覚えた技術だった。江藤に連れられて現場に行くとき、蓮はいつも周囲のカメラの位置を確認していた。あのときは証拠を残さないためだった。今は自分が証拠にならないためだ。

 次のネットカフェを見つけたのは午前十時だった。大通りから一本入った路地にある、看板が色褪せた古い店だ。二十四時間営業。身分証不要。現金払い可。蓮はフードを被ったまま受付を済ませ、個室ブースに入った。リクライニングチェアに体を預けると、歩き通しだった足がじんわりと痛んだ。

 スマホを取り出した。壊れたスマホだ。画面は相変わらずひび割れていて、電源は入らない。蓮はそれをテーブルの上に置いた。冷たかった。指先にまだ感触が残っている。

 昨日の夕方、商店街で耳鳴りがして、この画面に何かが映った。交差点の風景。でも微妙に違う風景。信号の色が違っていて、人の数が違っていて——そしてその通りに現実が変わった。

 気のせいだ、と蓮はあのとき自分に言い聞かせた。今もそう思おうとしている。だが三日前の工場跡地のことがある。追手が転倒し、店員がゴミを出しに来た、あの出来すぎた偶然。あのときもスマホを手に持っていた。

 二つの出来事を並べると、偶然という説明が苦しくなる。蓮はそれが分かっていて、分かっていることから目を逸らしていた。考えたくない。考えると、自分の足元がぐらつく気がする。

 テーブルの上のスマホが冷たい光を反射している。蛍光灯の光だ。ひびの線が白く浮かんでいて、まるで地図の等高線のように見えた。

 蓮はスマホを裏返して、画面を下にした。見たくなかった。

    *

 同じ頃、トクリュウの末端で、蓮に関する二度目の報告が上がっていた。

 報告者は蓮と一度も会ったことがない男だった。中間管理層に属する人間で、匿名通信アプリを通じて複数の追跡チームを管理している。蓮を直接追った二人組からの報告を取りまとめ、さらに上に送るのが仕事だ。

「対象は足立区周辺のネットカフェを転々としています。移動パターンに規則性はありませんが、キャッシュレスを完全に遮断しているため、追跡は目視に頼る部分が大きくなっています」

 テキストメッセージでの報告だった。相手のアカウントにアイコンはなく、プロフィールもない。返信は二分後に来た。

「顔は割れてるのか」

「江藤から提供された写真があります。ただしスマホの内蔵カメラで撮った不鮮明なもので、本人確認には近距離での目視が必要です」

「ネカフェの防犯カメラは」

「入店時にフードを被っていたとの目撃情報があり、顔の特定が困難です。ただ、足立区内の二十四時間営業店舗を順にあたれば、数日以内に絞り込める見込みです」

 返信までの間が、前回より短くなっていた。上が蓮に対する関心を強めている。末端の掃除屋一人にこれだけの手間をかけるのは、通常の対応ではない。

「品川の件を知っている可能性は」

「低いと思われます。掃除の段階で入っていますが、本人が中身を確認した形跡はありません」

「確認した形跡がないだけで、見ていない保証はないだろう」

 返信はそこで途切れた。

 報告者はメッセージを閉じて、別のチャットを開いた。追跡チームに新しい指示を打ち込む。「足立区を重点的に。二十四時間営業のネットカフェを回れ。写真を見せて、ここ数日で入店した若い男がいないか確認しろ」

 蓮が同じ場所に二泊しないルールを守っていることを、追跡チームはまだ知らなかった。だが足立区という範囲まで絞り込まれていることを、蓮もまた知らなかった。

 追う側と追われる側の距離は、蓮が思っているより近い。