小説置き場

第6話「記憶は戻るか」

3,663文字 約8分

逃亡生活の最初の一日は、意外なほど静かに過ぎた。蓮は川崎から東京に戻り、北千住のネットカフェに入った。二十四時間営業、フリードリンク付き、身分証不要のナイトパック。料金は八時間で千八百円。

 受付で現金を出すと、番号の書かれたカードキーを渡された。店員は蓮の顔をほとんど見なかった。深夜や早朝にやってくる客の事情をいちいち気にしていたら、この業態は成り立たないのだろう。

 指定されたブースは一畳半ほどの個室で、リクライニングチェアとテーブルと小さなモニターが詰め込まれていた。壁は薄い合板で、隣のブースからかすかにキーボードを叩く音が聞こえてくる。

 蓮はリクライニングを倒し、靴を脱いで足を伸ばした。膝の痛みが姿勢を変えるたびにずきりと主張する。手のひらの傷は乾いていたが、まだ突っ張る感覚があった。

 目を閉じた。疲れている。工場跡地から走り、川崎を歩き、ファミレスで夜を明かし、始発で東京に戻ってきた。体中の筋肉が糸を引くような疲労を訴えていて、意識が途切れるまでに十秒もかからなかった。

 夢を見たかどうかは覚えていない。目が覚めたとき、時刻は午後一時を過ぎていた。七時間近く眠ったことになる。

 体の強張りは少しだけ和らいでいたが、起き上がるとめまいがした。最後にまともな食事を取ったのはいつだったか。コンビニのおにぎり二つと、ファミレスのコーンスープ。それだけだ。

 ネットカフェのドリンクバーでコーンスープを二杯飲み、受付の横にあった自販機でカロリーメイトを一箱買った。四本入り。一本ずつ食べれば四回分の食事になる。

 一本を囓りながらブースに戻り、残りの三本をバッグに——バッグは持っていなかった。蓮は上着のポケットにカロリーメイトを突っ込んだ。

 ナイトパックの時間はとっくに過ぎていた。受付で延長料金を払う。三時間で六百円。一万三千円が一万円を切った。残金の減りが頭の中で時計のように刻まれていく。

    *

 午後の時間を、蓮はネットカフェのモニターで過ごした。

 やるべきことは二つあった。ひとつは安全な潜伏先を探すこと。もうひとつは、自分が置かれている状況を正確に把握すること。

 蓮はモニターのブラウザを開いて、自分の名前を検索した。何もヒットしない。当然だ。瀬戸蓮という人間はインターネット上に存在していない。SNSのアカウントは持っていないし、学校も一年で辞めた。蓮はデジタルの世界において完全な透明人間だった。

 次にトクリュウに関するニュースを探した。「匿名型犯罪組織」「闇バイト」「特殊詐欺」。それらしい記事はいくつもあったが、蓮が関わった具体的な案件に結びつくものは見当たらなかった。

 湾岸の倉庫も、工場跡地も、ニュースにはなっていない。当たり前だ。蓮がやっていたのは「痕跡を消す」仕事で、痕跡が残らないようにしていたからこそ、ニュースにならない。

 蓮はブラウザの履歴を消去してから、チェアにもたれかかった。

 状況の整理。金は一万円弱。身分証なし。口座なし。住所なし。携帯は壊れたスマホが一台と、SIMを抜いた使い捨ての端末が一台。頼れる人間はゼロ。追われている可能性は高い。

 詰んでいる。客観的に見れば完全に詰んでいる。

 でも蓮は生きている。昨夜、工場跡地で殺されかけたのに生きている。その事実だけが、蓮に薄い皮一枚分の余裕を与えていた。

 死んでいないなら、まだ何か手はある。何もないように見えても、とりあえず今日を生き延びて、明日を迎えることはできる。それ以上のことは、蓮にはまだ考えられなかった。

    *

 耳鳴りが始まったのは、夕方だった。

 蓮はネットカフェを出て、近くの商店街を歩いていた。日用品を買うためだ。歯ブラシと、安いタオルと、コンビニの袋に入れて持ち歩けるだけの着替え。百円ショップで歯ブラシとタオルを買い、古着屋でTシャツを一枚三百円で手に入れた。財布の中身がまた少し減る。

 商店街のアーケードの下を歩いているとき、それが来た。

 最初は空調の音だと思った。古いアーケードの天井に設置された換気扇が回る音に似ていて、低くて持続的な振動音だった。だが歩いても歩いても、その音は変わらなかった。左に曲がっても、店に入っても、耳の奥に張り付いたように鳴り続けている。

 耳鳴りだと気づいたのは、商店街を出て広い道路に出たときだった。周囲の騒音が変わったのに、その低い振動音だけが変わらない。自分の中から聞こえている。

 蓮は立ち止まって、左右の耳を手のひらで塞いだ。音が大きくなった。外の音が遮断されたぶん、頭の中で鳴っている音がくっきりした。

 低い、一定の周波数の振動。まるで古い蛍光灯が切れかけているときのような、あの嫌な音に似ていた。

 十秒ほどで音は消えた。蓮は手を下ろして、首を何度か振った。疲労のせいだろう。昨夜はまともに寝ていない。食事も足りていない。体が限界信号を出しているのだ。

 歩き始めた。別のネットカフェに移るつもりだった。同じ場所に長く留まるのは危険だ。北千住から足立区の方面に移動して、別の二十四時間営業の店を探す。

 蓮はスマホの地図アプリ——が使えないことを思い出した。使い捨ての端末のSIMは抜いてしまったし、壊れたスマホは電源が入らない。地図は自分の足と記憶で作るしかない。

 交差点で信号を待っているとき、また耳鳴りがした。

 今度はさっきより強かった。低い振動音に加えて、微かな高音が混じっている。金属を指の腹で弾いたような、細い共鳴音。

 蓮は眉をひそめて、反射的にポケットの壊れたスマホに手を伸ばした。なぜそうしたのかは分からない。耳鳴りとスマホに何の関係があるのか、論理的には説明できなかった。ただ手が勝手に動いた。

 スマホを引き抜いて、画面を見た。

 黒い画面。ひび割れ。何も映っていない——はずだった。

 一瞬だけ、ガラスのひびの奥に何かが見えた。画面が光ったわけではない。電源は入っていない。だがひび割れの隙間から覗くようにして、そこに何かが映っていた。

 交差点だった。今蓮が立っているのと同じ交差点。同じ方向を向いている。でも微妙に違う。歩道の向こう側に立っている人の数が違う。三人いたはずが、二人しかいない。信号の色も違う気がする。赤だったのに、画面の中では青に見えた。

 蓮は目をこすった。画面を見直す。何も映っていない。ただのひび割れた黒い画面だ。いつもと同じ。

 信号が青に変わった。蓮は渡った。渡りながら、歩道の向こう側の人数を数えた。二人。さっき三人いたと思ったが、今は二人だ。一人はどこかに行ったのだろう。それだけのことだ。

 画面に映ったものと現実が一致したのは、偶然だ。そもそも画面には何も映っていなかった。蓮の疲れた目が、ひび割れのパターンを風景として誤認しただけだ。

 耳鳴りは消えていた。

 蓮はスマホをポケットにしまって、足早に歩き始めた。背中が粟立つ感覚があった。怖い。何が怖いのか言葉にできないが、怖い。

 工場跡地で追手が転倒したあの瞬間に感じた違和感と、同じ種類の怖さだった。世界が自分の思い通りに動くことの怖さ——いや、思い通りではない。蓮は何も望んでいない。ただ信号の色がひび割れの向こうに見えただけで、それが現実と一致しただけだ。

 気のせいだ。疲れているんだ。まともに飯を食って、ちゃんと寝れば治る。

 蓮はそう自分に言い聞かせながら、次のネットカフェに向かった。

    *

 同じ時刻、都内のある場所で、一本の電話がかけられていた。

 発信者は蓮の知らない男だった。受話器の向こうにいるのも、蓮が会ったことのない人間だった。会話の内容は短かった。

「川崎の件、どうなった」

「未処理です。対象がコンビニの方向に逃走して、目撃者が出たので中断しました」

「つまり生きてるってことか」

「はい」

 沈黙が三秒あった。

「あのガキ、先月の品川の件を見てるんだろう」

「直接は見ていないはずです。掃除の段階で入っているので。ただ——」

「ただ?」

「現場に残っていた物の内容から、察している可能性は否定できません」

 また沈黙。受話器の向こうで何かを打つ音がした。キーボードの音だ。

「追え。始末しろとは言わない。まずは見つけろ。あのガキがどこにいるか、誰と接触しているか。報告だけでいい」

「了解です」

「あと——あのガキ、妙に運がいいって聞いたぞ。どういう意味だ」

「……正直、よく分かりません。現場の報告では、追跡中に人員が転倒して対象を取り逃がしたとあります。原因は不明です」

「運が良かっただけだろう」

「おそらく」

 通話が切れた。匿名通信アプリのログには何も残らない。暗号化されたデータが回線の中を通り抜けて、どこにも痕跡を残さずに消えた。

 トクリュウの中間管理層が、瀬戸蓮という名前を初めて認識した瞬間だった。末端の掃除屋。取るに足らない雑用。消したはずが、消えていない。

 報告書の文面は淡白だったが、その最後に一行だけ付け加えられた注釈が、やがて上層のある人物の目に留まることになる。

 「対象の逃走パターンに不自然な偶発性あり。継続監視を推奨」

 その報告を読む人物の名前を、蓮はまだ知らない。