深夜の川崎を三時間歩いて、蓮はファミリーレストランのドリンクバーの席にたどり着いた。
二十四時間営業の郊外型で、深夜二時を過ぎた店内には長距離ドライバーらしい男が一人と、大学生のグループが一つ、奥のボックス席で眠りこけているスーツの男が一人。
蓮は窓際の席に座り、三百九十円のドリンクバーだけを注文した。ウーロン茶を二杯飲んで、三杯目を手に持ったまま、テーブルに額をつけるようにしてしばらく動けなかった。
膝の痛みが鈍く脈を打っている。手のひらの擦り傷はかさぶたになりかけていて、ジーンズの膝には血が滲んだ跡が残っていた。
腕のフェンス傷はまだヒリヒリする。どの傷も致命的ではないが、全部が同時に痛むと、体全体がひとつの鈍痛になったような感覚だった。
蓮はテーブルの上に財布と二つの端末を並べた。財布の中身は一万三千円と小銭が少し。使い捨ての端末は電池残量が四十パーセント。壊れたスマホは相変わらず電源が入らない。
使い捨ての端末で匿名通信アプリを開いた。江藤のアカウントは沈黙したままだ。蓮はそのアカウントを長押しして、過去のメッセージ履歴をスクロールした。
一ヶ月分の指示が並んでいる。「22時・A地点」「21時半・B地点」「23時・C地点」。どれも同じ形式の、感情も文脈もない六文字から八文字のメッセージだった。その上に自分の「了解です」が毎回ぶら下がっている。
この画面が、蓮とトクリュウを繋ぐ唯一の線だった。江藤の電話番号と、匿名アカウント。それだけが蓮の「組織」だ。
顔を知っている人間は江藤だけ。江藤以外のメンバーとは使い捨ての現場で一度だけ顔を合わせて、名前も知らないまま別れる。蓮は組織の全体像を見たことがないし、見せてもらったこともない。
それが意味することを、蓮は今夜初めて正面から理解した。
蓮は使い捨てだ。
末端の中の末端。替えはいくらでもいる。闇バイトの募集をかければ、蓮のような人間は翌日にでも補充できる。
身分証もまともに持たない、銀行口座もない、住民票も怪しい十八歳。消えても誰も探さない。警察に届を出す家族もいない。母親の連絡先は二年前から繋がらなくなっていて、父親は最初からいない。
だから消された。蓮が何か失敗したからではなく、蓮の存在が不要になったから——あるいは、蓮が何かを知りすぎたと誰かが判断したから——あるいは単に、別の誰かの帳尻を合わせるために蓮という駒が消費されることになったから。
理由は分からない。分かる必要もなかった。末端に理由は降りてこない。降りてくるのは指示だけだ。「23時・D地点」。その指示に従って蓮は殺されかけた。
ウーロン茶が冷えている。氷が溶けきって、薄い色の液体がグラスの中で動かない。蓮はそれを飲み干して、もう一度ドリンクバーに立った。
今度はホットのコーンスープを選んだ。紙コップに注がれた黄色い液体がぬるかったが、体の中に温度が入ってくるだけで少し楽になった。
席に戻って、蓮は考えた。考えるのは苦手だ。蓮の強みは考えるより先に体が動くことで、じっくり計画を立てるタイプではない。
でも今は体を動かす先がない。走って逃げるのは得意だが、どこに逃げるかを決めなければ走り出すこともできなかった。
アパートには戻れない。江藤が場所を知っている。あの二人組がアパートの前で待っている可能性がある。
部屋に置いてあるものは——着替えが数枚、安物の布団、歯ブラシ、電気ケトル。どれも無くなって困るものではない。困るのは通帳——持っていない。保険証——失効している。住民票の写し——もともと持っていない。
蓮が所有している「重要なもの」は、今この手元にある一万三千円と、二つの端末と、ポケットの中の壊れたスマホだけだった。
身一つで逃げられるのは、持ち物が少ない人間の唯一の利点かもしれなかった。
使い捨ての端末を見た。この端末はトクリュウが管理するインフラの一部だ。SIMカードは使い捨てだが、匿名通信アプリのアカウントは蓮がずっと使っている。
もし江藤——あるいは江藤の上の誰か——がこの端末の通信を追跡できるとしたら、蓮の現在地は筒抜けになる。
蓮は端末の電源を切った。それからSIMカードを抜いて、トレイごとテーブルの上に置いた。小さなチップが蛍光灯の下で鈍く光っている。これを捨てれば、蓮とトクリュウを繋ぐ最後の線が切れる。
切っていいのか、と一瞬だけ思った。切ったら戻れない。
今ならまだ江藤に連絡して、謝って、何かの間違いだったと言い張ることもできるかもしれない。さっきの件は誤解で、D地点に行ったのはただの回収案件だったと——
無理だ。空の段ボールが三つ並んでいたことは蓮が見ている。あの場所に回収するものなど何もなかった。蓮を呼び出して処理するためだけに用意された舞台だ。そこに戻る道はない。戻れば次は走って逃げる暇もなく始末される。
蓮はSIMカードを指先で弾いて、紙ナプキンに包んだ。店を出るときにゴミ箱に捨てよう。
端末本体も処分したほうがいいが、今は他に時計代わりの道具がない。電源を入れなければ追跡はされないはずだと、蓮は自分を納得させた。
*
午前四時。蓮はファミリーレストランを出た。
空がうっすらと白みはじめていて、電線の向こうに薄い紫色が滲んでいた。始発電車までまだ一時間ある。
蓮はポケットに手を入れて歩いた。右手に壊れたスマホ。左手に紙ナプキンに包んだSIMカード。コンビニのゴミ箱にSIMカードを捨て、蓮は駅に向かった。
歩きながら、今後のことを考えた。金は一万三千円。東京を出るか、東京に留まるか。出るなら電車代がかかる。行く先にあてはない。地方に知り合いはいないし、身分証がなければホテルにも泊まれない。
留まるなら——ネットカフェか漫画喫茶だ。現金払い、身分証不要の店がまだある。一泊千五百円から二千円。一万三千円なら一週間弱持つ。その間に何をするか。何ができるか。
何もできない、と蓮は思った。履歴書に書ける経歴がない。高校は一年で中退した。資格もない。まともな仕事に就くためのあらゆる条件を蓮は満たしていなかった。
かといってトクリュウ以外の裏の仕事にツテがあるわけでもない。蓮が知っている裏社会は江藤の車の後部座席から見える範囲だけで、それすら今は閉ざされた。
行き止まりだ。どの方向にも壁がある。前に進むための手段が何も見当たらない。
それでも蓮は歩いていた。足を止める理由がないから歩いているのであって、目的地があるわけではない。
ただ、立ち止まると考え込んでしまう。考え込むと、自分がどれだけ詰んでいるかを正確に認識してしまう。それは今、蓮にとって最も危険なことだった。
駅前のベンチに座った。三日前にも同じようなベンチに座ったことを思い出す。あのときは始発を待っていただけだったが、今は違う。
あのベンチに座っていた蓮にはアパートがあった。仕事があった。江藤という「上」がいた。どれも碌なものではなかったが、少なくとも明日がどういう一日になるかは分かっていた。今は何も分からない。
ポケットの中のスマホが冷たい。蓮はそれに触れながら、昨夜のことを思い返していた。あの工場跡地で、追手が転倒して、店員がゴミを出しに来て、蓮は助かった。偶然だ。運がよかった。そう結論づけたはずだった。
でも今、蓮の指先にあるこの冷たさは、その結論を信じさせてくれなかった。この端末には何かがある。根拠はない。論理もない。
ただ蓮の中で、あの壊れたスマホの画面を覗いた瞬間と、追手が転んだ瞬間が、どうしても切り離せないのだった。
始発の電車が来た。蓮は立ち上がって、改札に向かった。行き先は決めていない。とりあえず東京に戻る。
東京のほうが人が多い。人が多い場所のほうが紛れやすい。蓮が十八年かけて身につけた唯一の技術——消えること——を使うには、人混みが必要だった。
ICカードは使わなかった。履歴が残る。切符を現金で買った。蓮の新しい生活は、そういう小さな用心の積み重ねから始まった。