コンビニまであと五十メートルほどのところで、蓮の足がもつれた。右足のつま先がアスファルトの段差を引っかけて、体が前のめりに崩れる。両手をついた瞬間、さっき建屋の前で擦りむいた右の手のひらに砂利が食い込んで、視界の端が白くなるような痛みが走った。
膝もぶつけた。ジーンズの布越しでも衝撃は骨に響いて、一瞬だけ足が動かなくなった。
背後の足音が三つ。近い。たぶんあと三十メートルもない。蓮は立ち上がろうとして、右膝が言うことを聞かないのを知った。走れない。少なくとも、さっきまでの速度では。
コンビニの光はすぐそこにある。白くて、平和で、蛍光灯の下でおにぎりを選んでいる誰かの背中が硝子越しに見えている。たった五十メートル。だがその五十メートルが、蓮と追手の距離差よりも長かった。
立ち上がった。膝を引きずりながら歩く。走れないなら歩くしかない。背後の足音が加速したのが耳で分かった。もう走っている。追いつかれる。あと十秒かそこらで追いつかれる。
蓮はポケットに手を入れた。使い捨ての端末ではなく——なぜかは分からない——後ろポケットの壊れたスマホを掴んでいた。手が勝手にそちらを選んだ。
冷たい。指先の感覚を麻痺させるような冷たさが掌全体に広がって、蓮は反射的にスマホを引き抜いた。
ひび割れた画面が手のひらの上にあった。真っ黒な画面。電源は入っていない。月明かりがひびの線に沿って細く反射しているだけだ。
何も映っていない。何も起きない。壊れたスマホはただの壊れたスマホで、追手はもうすぐ背中に手をかける距離まで来ている。
なのに——蓮はスマホの画面から目を離せなかった。
ひびの隙間に、何かが見えた気がした。画面の向こう側ではなく、ひび割れの筋そのものの中に、光ともノイズとも違う何かがちらついている。
見えたのは一瞬だった。目を凝らしたときにはもう消えていて、ただの黒い画面が手のひらの上にあるだけだった。
その直後、背後で鈍い音がした。
蓮が振り返ると、追手の一人が地面に転がっていた。大柄なほうの男だ。何かにつまずいたのか、足を滑らせたのか、仰向けに倒れて右肘を押さえている。
アスファルトの上に突起物は見当たらなかった。もう一人の太い男が足を止めて、倒れた仲間を見下ろしている。
そしてその瞬間、コンビニの自動ドアが開いた。店員が外に出てきた。ゴミ袋を持っている。店の裏のゴミ置き場に出すためだろう。
店員の視線が、道路の向こうで地面に転がっている男と、その傍に立っている男と、膝を引きずって歩いている蓮とを順番に捉えた。
追手の二人が動きを止めた。
人の目がある。コンビニの店員が見ている。店の中にも客がいる。防犯カメラが回っている。
ここで蓮を殴り倒せば、それは目撃される。通報される。映像が残る。匿名性で成り立っている組織にとって、それは仕事の失敗どころではなく、構造そのものを脅かすリスクだった。
太い男が舌打ちをした。大柄な男が立ち上がり、右肘を押さえたまま太い男のほうを見た。二人の間で何かが交わされた——言葉ではなく、目線だけの判断だった。
二人が踵を返した。
来た道を戻っていく。フェンスの方向へ。蓮はそれをコンビニの駐車場の隅から見ていた。膝が震えていた。
手のひらの擦り傷から血が滲んでいて、それがスマホのひび割れた画面にもついていた。赤い血と黒い画面とガラスの白い亀裂。蓮はそれをぼんやりと見下ろしていた。
助かった。
追手は帰った。コンビニの店員がゴミを出すタイミングと、大柄な男が転倒するタイミングが重なって、結果的に蓮は助かった。それだけのことだ。偶然だ。タイミングが良かったのと、追手が慎重だったのと、運が重なっただけだ。
そう思おうとした。でも、胸の中で何かがざらついていた。
転倒した男の足元に、つまずくようなものは何もなかった。蓮はその場所をさっき走り抜けている。段差も石もなかった。平坦なアスファルトだった。それなのに男は転んだ。なぜ。
店員がゴミを出しに来るタイミング。この時間帯にゴミを出す店は珍しくないが、追手が蓮に追いつくまさにその瞬間に自動ドアが開くだろうか。一秒早くても遅くても意味がなかった。ちょうどあの瞬間に出てきた。
偶然にしては、出来すぎている。
蓮はスマホをポケットにしまった。画面についた血を拭きもせずに。手が震えていて、細かい動作ができなかった。
*
コンビニのトイレで手のひらの傷を洗い、膝の状態を確認した。擦過傷だけで、骨には異常がないようだった。腕のフェンス傷は浅い切り傷で、血は既に止まりかけている。トイレットペーパーで傷口を押さえ、蓮はしばらく便座の蓋に座ったまま動けなかった。
震えが止まらなかった。追手に追われた恐怖ではなく——いや、それもあったが——蓮を震えさせていたのは、もっと別のものだった。
自分が助かった理由が、分からない。分からないことが怖かった。
あの男はなぜ転んだのか。店員はなぜあの瞬間に出てきたのか。二つの偶然が重ならなければ、蓮は追いつかれていた。膝を打って走れなくなった時点で、蓮は詰んでいたのだ。本来なら。
トイレの鏡に自分の顔が映っている。目の下の隈がいつもより濃い。唇の色が悪い。フードを被っているせいで影が深く落ちて、顔の半分が暗がりに沈んでいる。
蓮はその顔を見ながら、ポケットの中のスマホの冷たさをまだ指先に感じていた。
あのスマホを握った瞬間に、何かが起きた。
そう感じていることに気づいて、蓮は首を振った。馬鹿げている。壊れたスマホに何ができる。電源すら入らない端末が、現実に影響を及ぼすことなどあるわけがない。
蓮は疲れているのだ。走って、転んで、追われて、アドレナリンが出て、今はその反動で体中が震えている。頭がまともに動いていないだけだ。
だから忘れろ。偶然は偶然だ。運が良かった。それでいい。
蓮はトイレから出て、コンビニの棚からおにぎりを二つとペットボトルの水を取り、レジに向かった。現金で払った。
店員は若い男で、さっきゴミを出しに来た人物とは別だった。交代したのか、二人体制なのか。蓮はフードを深く被ったままレジを済ませ、店の外に出た。
外の空気は四月の夜にしては冷えていた。さっきまで走っていた道路は静かで、追手の姿はもうどこにもなかった。フェンスの向こうの工場跡地も暗く沈んでいる。まるで何事もなかったかのようだった。
蓮はおにぎりを一つ開けて、駐車場の隅で立ったまま食べた。梅。酸っぱさが舌に染みた。歯がカチカチと鳴っているのに気づいて、蓮はそれが震えのせいだと分かった。寒いのか怖いのか、もう区別がつかなかった。
食べ終わるころには震えは収まっていたが、代わりに体中がずしりと重くなった。膝が痛む。手のひらがじくじくする。腕のフェンス傷がシャツに擦れて地味に痛い。
このまま川崎にいるのは危険だった。追手は一度退いただけで、諦めたわけではないかもしれない。蓮のアパートの場所は江藤が知っている。戻れない。
蓮は水のペットボトルを握りしめたまま、深夜の川崎の道路をあてもなく歩き始めた。行く場所はない。金は財布の中に一万三千円。
使い捨ての端末はまだ生きているが、江藤の番号に電話をかける気にはなれなかった。かけたところで出ないだろう。出たとしても、もう江藤は蓮の味方ではない。
歩きながら、蓮は何度もポケットの中のスマホに触れた。冷たさはまだ消えていなかった。四月の夜に一時間以上持ち歩いている端末が、なぜ体温を吸収しないのか。考えても答えは出ない。考えること自体が馬鹿げている。
でも、考えずにはいられなかった。
あの瞬間——スマホの画面を覗いたあの瞬間に、何かが変わった。世界が蓮に、ほんの一瞬だけ甘くなった。偶然の確率が、蓮のためだけに偏った。
そんなことがあるわけがない。だが蓮は生きている。本来なら追いつかれていたはずなのに、生きている。
運が良かった。それだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、蓮は深夜の街を歩いた。後ろポケットのスマホは、冷たいままだった。