小説置き場

第3話「偶然か罠か」

3,308文字 約7分

三日後の夜、江藤からのメッセージはいつもと少し違っていた。匿名通信アプリに届いた文面は「23時・D地点」の六文字だけで、形式としてはいつもと同じだった。だが蓮の中の何かが引っかかった。D地点という指定を受けたことは過去に一度もない。

 AからCまでは知っている。Aは新宿の雑居ビル、Bは板橋の駐車場、Cは湾岸の倉庫。どれも蓮が実際に足を運んだ場所で、地図が頭に入っている。Dはない。使い捨ての端末に保存された過去のメッセージを遡っても、D地点の指定は見つからなかった。

 もうひとつ。メッセージの送信時刻が午後四時だった。いつもは夜の八時前後に届く。四時間早い。急な案件なのか、それとも——蓮は考えるのをやめた。

 考えすぎると動けなくなる。江藤に電話をかけた。三回のコールで出た。

「D地点って、どこですか」

「川崎の工場跡。住所送る」

 江藤の声はいつもと変わらなかった。蓮はそう思った。思おうとした。でも何かが違う。声のトーンではなく、間合いだ。

 いつもの江藤なら「おう」とか「ああ」とか、蓮の質問の途中で被せるように返事をする。今夜の江藤は蓮が喋り終わるまで待っていた。人間が丁寧になるのは、相手に気を遣っているときか、あるいは——

「今日は一人だから」

 江藤が言い足した。いつもなら二人か三人で動く。一人は珍しい。

「何を回収するんですか」

「行けば分かる。軽いやつだ」

 通話が切れた。蓮は端末をポケットにしまい、送られてきた住所を確認した。川崎市の臨海部。地図アプリで見ると、大きな工場の跡地らしい敷地が灰色の四角形として表示されていた。周囲に店も住宅もない。最寄り駅から徒歩二十分。

 嫌な感じがした。

 蓮の「空気を読む勘」は、言葉になる前の段階で危険を察知する。母親の恋人が酔って帰ってきた夜の、あの玄関のドアが閉まる音。今の感覚はそれに似ていた。

 はっきりした根拠はない。江藤の声が変だったと言えば変だったが、通話品質のせいかもしれない。一人で行けと言われたのは初めてだが、仕事の内容によってはあり得なくもない。D地点が初めてなのは、単に新しい場所を押さえただけかもしれない。

 どの不安にも「かもしれない」がつく。確定的なものは何もない。

 蓮はアパートの部屋で靴紐を結びながら、行くべきかどうかを考えた。行かなければどうなるか。連絡を無視すれば、蓮はトクリュウの中で「使えない人間」になる。使えない人間がどう扱われるかは知っている。

 仕事が来なくなるだけならまだいい。だが、知っていることを知っている人間が組織の外に出ることを、上は許さない。蓮が知っていることなど大したことではないが、上がそう判断するかどうかは別の問題だ。

 結局、蓮は二十二時半にアパートを出た。電車を乗り継いで川崎へ向かう。車内は空いていて、向かいの席に酔った中年男が一人眠っているだけだった。

 窓の外を首都圏の夜景が流れていく。蓮は後ろポケットのスマホに無意識に手を当てた。冷たい。いつもの冷たさだった。

    *

 工場跡地は暗かった。

 住所が示す場所に着いたのは二十三時の五分前で、目の前にあったのは錆びたフェンスと、その奥に広がるコンクリートの広場だった。建屋は残っているが、窓は全て割れていて、壁面には経年の汚れと落書きが重なっている。

 フェンスの一部が切断されていて、人が通れるだけの隙間が空いていた。蓮はそこから中に入った。

 足元の感触が変わる。アスファルトからコンクリートへ。雑草が割れ目から顔を出しているが、人が歩いた形跡がいくつもあった。

 蓮は周囲を見回す。出口の確認。フェンスの隙間が一つ、建屋の裏手に回れば別のフェンスがあるはず、道路までの距離はおよそ百五十メートル。湾岸の倉庫より遠い。走れば一分はかかる。

 建屋の中に入ると、天井の高い空間が広がっていた。かつて何かの製造ラインがあったのだろう、床にはボルト穴の跡が規則的に並んでいる。月明かりが割れた窓から差し込んで、コンクリートの床に白い四角形を落としていた。

 奥のほうに段ボールが三つだけ置いてある。いつもの回収案件に比べて少ない。江藤が「軽いやつだ」と言った意味はこれか、と蓮は思った。

 思ったが、建屋の中に江藤はいなかった。

 車もない。建屋の外の広場にも、道路に面した場所にも、ワンボックスの姿はなかった。

 蓮は使い捨ての端末で江藤に電話をかけた。コール音が鳴る。一回、二回、三回、四回、五回。出ない。もう一度かけた。今度はコール音すら鳴らなかった。電源が切られている。

 蓮の背中を、冷たいものが這い上がってきた。

 匿名通信アプリを開いた。江藤のアカウントを確認する。最後のメッセージは「23時・D地点」のまま変わっていない。

 既読はついている。蓮が既読をつけたのだから当然だ。だがその下に、新しい通知はなかった。遅れるとも、先に行けとも、何も書かれていない。

 段ボールに近づいた。三つとも封がされていない。上のテープが剥がされた状態で、中を覗くと空だった。三つとも空。何も入っていない。

 回収する荷物がない。

 蓮の脳が、それまで別々に浮かんでいた不安の断片をひとつに組み上げた。D地点という初めての場所。メッセージの送信時刻のズレ。一人で来いという指示。江藤の不自然な間合い。電話に出ない。空の段ボール。

 これは仕事じゃない。

 蓮を呼び出すためだけに用意された場所だ。

 体が先に動いた。頭で状況を整理するより先に、蓮の足が建屋の入り口に向かっていた。母親の恋人の足音を聞いたときと同じだ。考えるより先に、逃げる。

 建屋を出た瞬間、ヘッドライトの光が目を射った。

 二台の車がフェンスの外に停まっていた。蓮が中に入ったときにはなかった車だ。エンジンは切れていて、ヘッドライトだけが蓮のいる方向を照らしている。

 光の輪の中に人影が三つ見えた。逆光で顔は分からないが、体格でひとりは分かった。江藤だ。

 残りの二人は知らない男だった。一人は背が高く、もう一人は太い。どちらもフードを被っていて、手に何かを持っている。

 距離がありすぎて何かは分からないが、蓮の体は本能的に理解していた。あれは棒か、パイプか、その類のものだ。

「江藤さん」と蓮は声を出した。声が震えているのが自分でも分かった。

 江藤は何も言わなかった。ヘッドライトの光を背にして立っているだけだった。その沈黙が、蓮にすべてを伝えた。

 江藤は蓮を「処理」するためにここにいる。あるいは、処理する人間を連れてきた。江藤自身の判断なのか、上からの指示なのかは分からない。どちらでも結果は同じだった。

 蓮は走った。

 建屋の裏手に回り、フェンスに向かって全力で走った。背後で足音が聞こえた。追ってきている。蓮は細い体を活かして建屋と建屋の隙間をすり抜け、錆びたパイプの下をくぐり、コンクリートの段差を飛び越えた。

 暗い。月明かりだけが頼りだった。足元が見えない。何かにつまずきかけて体勢を崩し、手のひらをコンクリートに打ちつけた。皮が剥ける痛みが一瞬走ったが、立ち止まる余裕はなかった。

 フェンスに辿り着いた。裏側にも切断された箇所がある。蓮は体をねじ込んで通り抜けた。フェンスの金属片がジャケットの袖を引き裂き、腕に鋭い痛みが走った。血が出ている。構わず走った。

 道路に出た。左右を見る。右手に明かりが見える。コンビニか、ガソリンスタンドか。とにかく人がいる場所。蓮は右に走った。

 背後のフェンスを乗り越える音がした。まだ追ってきている。蓮の足は速くない。体力もない。段ボールを十五個運んだだけで息が上がる体だ。全力疾走を続けられる時間は限られている。

 走りながら、蓮は後ろポケットのスマホが太ももに当たるのを感じていた。壊れた端末が走るたびにポケットの中で跳ねて、布越しに太ももを叩く。冷たい。走って体温が上がっているはずなのに、スマホだけが冷たかった。

 百メートル先にコンビニの光が見えた。人がいる。人がいれば、さすがに殴り殺されることはない。あと百メートル。蓮の息は限界に近かった。喉が焼けるように痛い。足がもつれる。

 背後の足音が近づいてくる。

 蓮は走った。走ることしかできなかった。コンビニの光に向かって、ただ走った。