五月の終わりは、雨が多かった。「ナイトクルーズ」の営業時間が終わる朝六時に、美咲と蓮は一緒に店を出ることが増えていた。美咲の帰宅方向と、蓮が日中を過ごす公園の方向が同じだったからだ。
五月二十八日の朝も、二人は並んで歩いていた。雨は上がったばかりで、アスファルトがまだ濡れている。朝日がビルの隙間から差し込んで、水溜まりにオレンジ色の光が反射していた。
「ねえ蓮。あんたさ、いつまでネカフェにいるつもり」
美咲が訊いた。蓮は答えなかった。いつまでも、とは言えない。でも明日の予定すら立てられない蓮に、「いつまで」は重すぎる問いだった。
「生活保護とか、相談窓口とか。調べたことある?」
「ないです」
「行ったほうがいいよ。あんた十八でしょ。未成年じゃないから、自分で申請できる」
蓮は黙っていた。生活保護を申請するには住所が要る。住民票が要る。身分証が要る。蓮にはどれもない。そしてそれ以上に、窓口に行けば名前と顔が記録に残る。記録はデジタルで管理される。蓮を追っている人間がその記録にアクセスできるかは分からないが、リスクは取れない。
「行けない理由があるんだよね」
美咲は蓮の沈黙を読んだ。美咲は蓮の事情を知らない。聞いていない。でも「行けない理由がある」ことは理解していた。
「うん。まあ、聞かないけど」
二人が商店街の入口に差しかかったとき、蓮の足が止まった。
前方、五十メートル先の交差点に、男が三人立っていた。グレーのパーカー。赤いスニーカー。黒いキャップ。蓮が何度も見た三人組だ。こちらを見ている。
蓮の体が硬直した。朝の六時。追手が朝から動いている。蓮の行動パターンが読まれている。ネットカフェを朝に出ること、この方向に歩くこと、全部知られている。
「蓮?」
美咲が蓮の横顔を見た。蓮の視線を追って、前方の三人に気づいた。
「あいつら?」
「はい。逃げます」
蓮は踵を返した。美咲の手首を掴んで引っ張った。美咲が小さく声を上げたが、蓮は構わず走った。商店街の反対方向に。
後ろで足音が加速した。追ってきている。三人分の足音。蓮の足は速くない。美咲を引っ張りながらではなおさらだ。
「蓮、離して。自分で走れる」
美咲が手首を振り払って、自分の足で走り始めた。蓮より速かった。美咲は日常的に自転車通勤をしていて、脚力がある。蓮のほうが遅れそうになった。
路地に入った。曲がった。また曲がった。蓮は走りながらポケットのスマホに手を伸ばした。冷たい。いつもより冷たい。指先が凍るような冷気が掌に広がっていく。
——使うな。
蓮の中で声がした。自分の声だ。使えば助かる。でも使えば記憶が削れる。美咲との記憶がまたズレる。使うたびに自分が壊れていく。
だが後ろの足音が近い。美咲がいる。美咲を巻き込むわけにはいかない。美咲だけでも逃がさなければ。
蓮はスマホを握りしめた。
画面が冷たく光った——ような気がした。実際には見ていない。ポケットの中で握っているだけだ。だが指先を通して、何かが流れ込んできた。道の情報ではない。場所の情報でもない。もっと曖昧な、「このまま走れば大丈夫だ」という確信だけが蓮の中に注がれた。
蓮は走った。美咲の前に出て、路地を右に曲がった。曲がった先に、早朝の市場の搬入トラックが停まっていた。荷台が開いていて、段ボールを運び込んでいる作業員が二人いる。蓮と美咲がトラックの陰に滑り込んだ直後、追手の三人が路地の入口に現れた。
だが追手は足を止めた。作業員がいる。目撃者がいる。市場の搬入口には防犯カメラもある。三人は互いに目を合わせ、舌打ちをして、来た道を戻っていった。
また都合がいい。市場のトラックがちょうどこの路地に停まっていて、ちょうど荷台が開いていて、ちょうど作業員が外にいた。
蓮はトラックの陰で膝に手をついて、荒い息を吐いた。そのとき、視界にノイズが走った。
今回のノイズは、前の二回とは比べものにならなかった。視野の右端だけではなく、全体が灰色の粒子に覆われた。世界がテレビの砂嵐になった。蓮は目を開けているのに何も見えなかった。自分の手も、トラックも、路地の壁も。全部が灰色のノイズの向こうに消えた。
そして、自分がどこにいるのか分からなくなった。
立っているのか座っているのか。屋外なのか屋内なのか。朝なのか夜なのか。自分の体の輪郭すら曖昧になった。五秒。十秒。時間の感覚も溶けていく。
誰かの手が、蓮の腕を掴んだ。
「蓮!」
美咲の声だった。腕を掴む手の感触が、蓮を現実に引き戻した。ノイズが薄れていく。灰色の粒子が視界の端に退いて、路地の壁が見えてきた。トラックの荷台。段ボール。濡れたアスファルト。美咲の顔。
美咲は蓮の腕を掴んだまま、蓮の顔を覗き込んでいた。心配と困惑が半分ずつ混ざった表情だった。
「大丈夫? 急にフラフラして、目の焦点合ってなかったよ」
蓮は口を開いた。声が出なかった。喉が渇いている。舌が動かない。三秒かけて、ようやく「大丈夫です」と言った。大丈夫ではなかった。
美咲は蓮の腕を離さなかった。蓮が倒れると思っているのだろう。実際、膝が笑っていた。立っているのがやっとだった。
「蓮。あんたが何を持ってるか知らないけど」
美咲が言った。声は低かったが、震えてはいなかった。
「今は走って。考えるのは後でいいから。走れる?」
「走れます」
「じゃあ走ろう。あいつらが戻ってくる前に」
美咲が蓮の腕を引いて、歩き出した。走るのではなく、早歩きで。蓮の足が追いつける速度を選んでくれている。
蓮は歩きながら、ポケットの中のスマホに触れた。冷たさが戻りつつあった。体温がまた移らなくなっている。使った後はいつもそうだ。冷たさが戻る。記憶が削れる。視界がノイズに侵される。
今回は何を失ったのだろう。まだ分からない。明日になれば分かるかもしれない。美咲との会話のどこかがまたズレるかもしれない。あるいは、もっと大きなものが欠けているかもしれない。
美咲の手が蓮の腕を掴んでいる。その温かさだけが、灰色のノイズの後に残った唯一の確かなものだった。
蓮はその手を振り払わなかった。振り払えなかった。一人で逃げ続けてきた三週間で、誰かの手の温度を感じたのは初めてだった。冷たいスマホの感触ばかりに慣れた指先が、美咲の体温に触れて、何かを思い出しかけている。思い出しかけているのに、その記憶にも薄い霧がかかっていて、手が届かない。