湾岸の倉庫に着いたのは二十二時を少し過ぎた頃で、海の匂いが車を降りた瞬間に鼻を突いた。潮と錆び、かすかに工業用の油が混ざった、首都圏の港湾地帯に特有の匂いだった。
コンクリートの壁に錆びたシャッター、隣の倉庫との間には雑草が腰の高さまで伸びている。街灯が二つ。片方は電球が切れていて、残りのひとつが黄色い光でシャッターの前を照らしていた。周囲に人家はない。
江藤がシャッターの鍵を外している間に、蓮は癖で周囲を見回した。正面のシャッター、裏口らしいドアが右手の壁にあること、コンクリート塀の高さはおよそ二メートルで上部に有刺鉄線はないこと、走って表の道路に出るまでの距離はおよそ八十メートル。
何かが起きたらどこへ逃げるか、それを最初に把握しておかないと蓮は落ち着かなかった。倉庫でも駐車場でも、初めての場所に来たら出口を確認する。いつからそうしているのか覚えていないが、おそらくは踊り場でうずくまっていたあの頃からだろう。
シャッターが軋みながら上がると、倉庫の中は暗かった。江藤がスマホのライトを点けると、奥の壁際に段ボールが十五、六個ほど積み上げられているのが浮かび上がった。
「あれを全部、車に積め」
蓮とタトゥーの男が段ボールを運び出す。一つひとつがずしりと重く、テープの貼り方が妙に丁寧だった。宛名も差出人もない。持ち上げるたびに中身がわずかに動く感触が腕に伝わってきて、一度だけ、金属が擦れ合うような硬い音がした。
蓮はそれ以上何も考えないようにした。段ボールの中身が何であるかを推測すると手が止まる。手が止まると怒鳴られる。怒鳴られるだけで済めばいいが、そうでないこともある。だから考えない。持ち上げて、運んで、車に積む。それだけを繰り返す。
三十分ほどで積み終わった。シャツの背中が汗で体に貼りついていた。四月とはいえ重い荷物を何往復も運べば体は熱を持つ。蓮は上着のジッパーを下げたまま、荒い息を整えながら江藤の次の指示を待った。
「掃除しろ」
ビニール袋とウェットティッシュが飛んできた。蓮は受け取って頷き、倉庫の中へ戻る。段ボールが置いてあった場所に散らばった細かなものを一つずつ拾いながら、袋に入れていく。紙片。ガムテープの切れ端。結束バンドの破片。梱包材の欠片。
見落としがないように膝をついて床を這うように確認し、それからウェットティッシュで床を拭いた。壁面に手が触れた跡がないか確認し、シャッターの取っ手を拭き、最後に地面の足跡を靴底で踏んで均す。
蓮がこの一連の作業をやっている間、江藤は車の中で誰かと通話していた。ドアを閉めているので声は聞こえない。タトゥーの男は倉庫の入り口に立って煙草を吸っていて、その煙が潮風に乗って蓮のいる倉庫の奥まで漂ってきた。
煙草の匂いと潮の匂いが混ざった空気の中で、蓮はしゃがみ込んで床の最終確認をしていた。
そのとき、後ろポケットのスマホが震えた気がした。
使い捨ての端末ではない。上着のポケットに入っている仕事用のそれではなく、ジーンズの後ろに入れっぱなしにしている、あの壊れたスマホだった。
蓮は手を止め、そっとポケットに手を伸ばした。指先が布越しにスマホの輪郭をなぞる。ひび割れたガラスの凹凸が指紋の溝に引っかかるのを感じたが、振動はもうなかった。
当然だ。電源が入らない端末が振動するはずがない。疲れているのだろう、と蓮は思った。重い段ボールを十五個も運んだ後だ。腕も肩もだるい。指先の感覚が鈍っていただけだ。
それでも気になったのは、スマホが妙に冷たかったことだった。四月の夜気にさらされていたのだから冷えていて当然なのだが、自分の体温が移ってもおかしくない時間ポケットに入れていたはずで、それにしてはずいぶんひんやりしていた。
まるでつい今しがた、どこか別の場所から持ってきたかのような冷たさだった。
「——おい、終わったか」
江藤の声が倉庫に響いて、蓮の手がポケットから離れた。ビニール袋を握り直して立ち上がり、倉庫を出る。
「終わりました」
「見せろ」
江藤が袋を受け取り、中身を確認した。紙片の一枚一枚、結束バンドの破片、ガムテープの切れ端。
一度、現場にガムテープの切れ端をひとつ残したことがあった。そのとき蓮は頬を平手で打たれて、頭の中で鐘が鳴るような音がして、三十分ほど左耳が聞こえなくなった。それ以来、見落としはない。
「よし。乗れ」
蓮は後部座席に戻った。車が走り出し、バックミラーの中で湾岸の倉庫が小さくなっていく。ヘッドライトの光の先に首都高の高架が横切っていて、その上を赤いテールランプが何台か流れていった。日付はもうすぐ変わる。
これが瀬戸蓮の仕事だった。週に三回から四回、使い捨ての端末にメッセージが届く。アイコンもプロフィールもない文字だけの通知で、「○時・○地点」と書いてある。誰が打っているのかは分からない。
場所に行き、言われたことをやり、手渡しで現金を受け取って帰る。一回あたり一万五千円から二万円。銀行口座は持っていない。身分証がまともに揃わないから開設できない。住民票も怪しい。保険証はとっくに失効している。
江藤は蓮の「上」にあたる人間だが、江藤の上に誰がいるのかは知らない。組織の全体像も知らない。知っているのは、自分がこの仕組みの末端にいるということだけだった。
末端より下はない。何かが起きたら真っ先に切り捨てられる場所。替えはいくらでもいる場所。分かっている。分かっていて、蓮はここにいる。他に行く場所がなかったからだ。
中学のとき、先輩に飯を食わせてもらった。温かい牛丼で、肉が多めに盛られていた。その先輩がちょっとした頼みごとをしてきて、蓮はそれを断らなかった。頼みごとは少しずつ大きくなり、気がつけば蓮はトクリュウの末端で段ボールを運ぶ人間になっていた。
騙されたとは思っていない。脅されたわけでもない。ただ、まともな選択肢が少なかっただけだ。少なかった、と言い訳している自分が一番みっともないことにも、蓮は薄々気がついていた。
*
午前一時。江藤に駅前で降ろされた。
「次は連絡する」とだけ言い残して、ワンボックスのテールランプが信号をひとつ越えて消えた。タトゥーの男はいつの間にか途中で降りていた。降りた場所も覚えていない。車中でうとうとしていたのかもしれなかった。
蓮は駅前のベンチに腰を下ろした。終電はとっくに出ていて、始発まで四時間以上ある。アパートまでは歩いて四十分。歩けない距離ではないが、今夜は腰を上げる気になれなかった。段ボールを運んだ疲労が遅れて全身に回ってきていて、太ももの内側が鈍く痛んだ。
使い捨ての端末で匿名通信アプリを開いた。新しいメッセージはなかった。報酬の受け渡しは明後日で、それまで蓮に用はない。
何もない時間が、蓮は一番苦手だった。何もないと考えてしまう。考え始めると、自分が今どういう場所に立っているのかを正面から見てしまう。
自分は犯罪者だ。正確に言えば、犯罪の道具だ。
あの段ボールの中身が何だったのか、蓮は知らない。知らないことが防御線だった。知らなければ、自分は関わっていないと思い込むことができる。でもそれは嘘だ。段ボールを運んだのは蓮の腕で、足跡を消したのは蓮の手で、痕跡をビニール袋に入れて口を結んだのも蓮だった。
そのことを自己嫌悪と呼ぶには、蓮の中の感情はあまりにも曖昧だった。はっきり嫌悪できるほど、自分を被害者だと思い切れない。かといって加害者だと認めるほどの覚悟もない。どっちつかずの場所で、缶コーヒーみたいにぬるい気持ちのまま、蓮は毎日を過ごしている。
駅前のロータリーに一台だけタクシーが停まっていて、運転手は窓の向こうで頭を傾けて眠っている。コンビニの白い光が駐車場のアスファルトを照らし、その手前に設置された防犯カメラが蓮のベンチのほうを向いていた。
蓮は上着のフードを深く被った。意識してやっていることではなかった。監視カメラの視線を避ける動作は、いつの間にか呼吸と同じくらい自然なものになっていた。
ポケットの中のスマホに、また指先が触れた。
冷たい。さっき倉庫で触ったときと同じ、体温が移らない奇妙な冷たさだった。ガラスのひび割れが指の腹に細い線を引くようにひっかかって、蓮はそのまま親指でひび割れの筋をなぞった。
意味のない動作だった。ただ、この壊れたスマホに触れていると、ほんの少しだけ胸の底の落ち着かなさが薄らぐことに、蓮は自分でも説明のつかない確信を持っていた。
いつから持っていたんだっけ、とふと思う。
中学のときにはもう持っていた気がする。でも拾った場所も、時期も、状況も、記憶がうまく繋がらなかった。思い出そうとすると、あの頃の記憶全体がぼんやりと霞がかかったようになる。ちょうど雨の日にガラス越しに外を見ているような、そういう曖昧さだった。
まあいい、と蓮は思った。壊れたスマホの来歴を思い出したところで何も変わらない。眠い。明日の夜にはまた江藤から連絡が来るかもしれないし、来ないかもしれない。どちらにしても蓮がやることは同じだった。
言われた場所に行く。言われたことをやる。掃除する。帰る。
その繰り返しが蓮の人生の全部で、この先もそうだろうと蓮は思っていた。一年後も三年後も、同じように使い捨ての端末でメッセージを受け取り、同じように知らない男と車に乗り、同じように誰かの痕跡を消す。
殴られなければそれでいい。朝を迎えられればそれでいい。それ以上のことを望む資格が自分にあるとは思えなかったし、望んだところで手の届く場所にはなかった。
蓮はベンチの背もたれに体を預けて目を閉じた。ポケットの中の壊れたスマホは相変わらず冷たくて、その冷たさだけが四月の夜のぬるさの中で、妙に鮮やかだった。
駅前の時計が午前一時十五分を指している。
始発まであと三時間半。蓮はフードの中に顔を埋めて、浅い眠りに落ちていった。遠くで救急車のサイレンが鳴っていたが、それが止んだのか、自分が眠ったのか、蓮にはもう区別がつかなかった。