倉田美咲の一日は午後三時に始まる。目覚ましが鳴る前にだいたい目が覚めるのは、カーテンの隙間から入ってくる午後の日差しが顔に当たるからだ。ワンルームのアパート、家賃四万二千円、駅から徒歩十五分。築三十年で壁が薄く、隣の部屋の目覚ましの音が聞こえるくらいだが、夜勤で昼間に寝る美咲にとっては、隣人が朝型であることはむしろ都合が良かった。夜は静かだ。
起きたらまず、洗面台で顔を洗う。鏡に映る自分の顔は、いつも少し疲れている。目の下に薄い隈があるのは夜勤を始めてから消えたことがない。化粧は薄くていい。どうせ夜中に客の顔を見ることはほとんどないし、見たとしても相手は美咲の顔を覚えない。ネットカフェの深夜帯はそういう場所だ。
コンビニで遅い朝食を買う。おにぎり二つとサラダ。レジで店員と二言三言交わすのが、美咲のその日最初の会話になる。専門学校を辞めてから、友人と会う機会は減った。連絡を取らなくなったのは美咲のほうからで、理由は単純だ。学校の友人は学校の話をする。美咲に学校の話はない。
夜勤のシフトは午後十時から翌朝六時まで。「ナイトクルーズ」まで自転車で十分。カーディガンを羽織って、制服に着替えて、カウンターに立つ。深夜帯の客は大きく分けて三種類いる。終電を逃したサラリーマン。ゲームか動画のために来ている常連。そして、行く場所がない人たち。
蓮は三番目だった。
最初に気づいたのは二週間前だ。フードを被った若い男が毎晩のように来て、14番ブースに入って、朝まで出てこない。身分証を出さないフリー席のナイトパックを現金で払う。食事はドリンクバーのスープだけ。日に日に顔色が悪くなっていくのが、カウンターからでも分かった。
美咲は声をかけなかった。ネットカフェの夜勤で学んだ最初のルールが「客の事情に踏み込まない」だ。行く場所がない人には行く場所がない理由があって、その理由は大抵、他人に話したいものではない。美咲はそれを知っている。自分もかつて、似たような場所にいたことがあるから。
専門学校の学費が払えなくなって辞めたとき、美咲は三日間ネットカフェで暮らした。実家に帰る選択肢もあったが、帰れなかった。帰ったら母親に「だから言ったでしょ」と言われる。それが嫌で、三日間だけネットカフェの客だった。だからあの場所にいる人間の気持ちが分かる。分かるからこそ、踏み込まない。
蓮は三番目だった。最初に気づいたのは四月の終わり頃だ。フードを被った若い男が毎晩のように来て、14番ブースに入って、朝まで出てこない。身分証を出さないフリー席のナイトパックを現金で払う。食事はドリンクバーのスープだけ。日に日に顔色が悪くなっていくのが、カウンターからでも分かった。頬の肉が落ちて、目の下の隈が濃くなって、手が震えている日もあった。
美咲は声をかけなかった。ネットカフェの夜勤で学んだ最初のルールが「客の事情に踏み込まない」だ。行く場所がない人には行く場所がない理由があって、その理由は大抵、他人に話したいものではない。美咲はそれを知っている。自分もかつて、似たような場所にいたことがあるから。
専門学校の学費が払えなくなって辞めたとき、美咲は三日間ネットカフェで暮らした。実家に帰る選択肢もあったが、帰れなかった。帰ったら母親に「だから言ったでしょ」と言われる。それが嫌で、三日間だけネットカフェの客だった。四日目に求人誌で見つけたのが「ナイトクルーズ」の夜勤だった。客から従業員への転身。あの三日間があったから、美咲はこの仕事を続けている。あの場所にいる人間の気持ちが分かるから。分かるからこそ、踏み込まない。
でも蓮は、限度を超えていた。
金がなくなって、食事がスープだけになって、三日間来なくなって、戻ってきたときに出したのは二百四十円だった。三時間パックの半額。あの二百四十円を見たとき、美咲の中で何かが判断した。こいつはもう、放っておいたら死ぬ。
だからカップ麺を差し入れた。だから不足分を自腹で出した。だから追手が来たとき裏口に案内した。全部、「放っておいたら死ぬ」という判断の延長線だ。好意ではない。同情でもない。目の前で人が死ぬのを見たくないだけだ。
——と美咲は自分に説明していた。だがその説明が苦しくなってきたのは、蓮が「ありがとうございます」と言った夜からだった。
あの声は、お礼の定型句ではなかった。蓮自身が驚いていた。口から勝手に出た言葉を、蓮が自分で受け止められていない顔をしていた。それを見たとき、美咲の胸の奥で何かが軋んだ。
この子は、ありがとうを言い慣れていないのだ。
だから放っておけない。好意じゃない。同情でもない。ただ、ありがとうを知らない人間を、知らないまま死なせたくない。それだけだ。
五月二十四日の夜、美咲はシフトに入る前に自転車を止めて、コンビニでカップ麺を二個買った。一個は自分の夜食。もう一個は14番ブースの下の隙間から差し入れる分。
蓮のために買い物をするのが習慣になっていることに、美咲は気づいていた。気づいていて、やめなかった。
もうひとつ、美咲が気づいていることがあった。蓮の周りで、おかしなことが起きている。追手が来るたびに、都合よく何かが起きて蓮は助かる。最初は運がいいだけだと思った。でも三度目、四度目となると、運では説明がつかなくなる。
そして記憶のズレ。美咲は蓮に「オレンジジュース」と頼んだ記憶がある。蓮は「アップル」と言われたと主張する。蓮は嘘をつくタイプではない。嘘をつくには器用さが要るし、蓮にはその器用さがない。だとすれば、蓮は本気で「アップル」だと思っている。美咲も本気で「オレンジ」だと思っている。
どちらかの記憶が間違っている。あるいは——両方とも正しくて、何か別のことが起きている。
美咲はその「何か別のこと」について考えるのを避けていた。考え始めると、自分が蓮に関わっている理由が「放っておいたら死ぬから」では済まなくなる気がしたからだ。
自転車を漕ぎながら、美咲は夜風に目を細めた。五月の夜は走ると肌寒い。あと十分で「ナイトクルーズ」に着く。蓮は14番ブースにいるだろう。壊れたスマホを手のひらに載せて、天井を見つめているだろう。美咲はカップ麺をブースの隙間から差し入れて、何も言わずにカウンターに戻るだろう。
その繰り返しが、いつまで続くのか。美咲にはまだ分からなかった。