深夜の「ナイトクルーズ」は静かだった。午前二時を過ぎると、店内の空気そのものが密度を増したように重くなる。ブースの壁越しに聞こえるのはエアコンの送風音と、遠くのブースで誰かがキーボードを叩く微かなカタカタ音だけだ。
蓮は14番ブースのリクライニングチェアに深く体を沈めていた。膝の上に毛布を掛け、その下の手のひらに壊れたスマホを載せている。手のひらの中央にあるスマホの重さは、百五十グラムほどだろう。軽い。こんなに軽いものに自分の命を握られている。
画面を見ていた。意図的に見ていた。これまではポケットの中で触れるだけだったが、今夜は違う。蓮はこのスマホが何なのかを知りたかった。知りたいと思った時点で、蓮の中の何かが変わっていた。
これまでは「考えたくない」「気のせいだ」と目を逸らしてきた。追手が転んだのは偶然。店員がゴミ出しに来たのも偶然。建物の隙間を見つけたのも、たまたま目に入っただけ。そう自分に言い聞かせてきたが、もう限界だった。美咲との記憶のズレが——あの「カップ麺、前にも食べたよね」という美咲の言葉が——蓮に考えることを強いていた。
ひび割れた黒い画面。蛍光灯の光がガラスの表面で複雑に屈折し、蓮の顔がぼんやり映っている。ひびの線は蜘蛛の巣のように広がっていて、中央から放射状に走る大きな亀裂が三本。その間を埋める細い枝分かれが無数にある。
蓮はひびの一本を指先でなぞった。ガラスの凹凸が指紋に引っかかる感触がある。冷たい。いつもの冷たさだ。だが今夜は、その冷たさに意識を集中してみた。どこから来る冷たさなのか。バッテリーが冷えているのか。画面のガラスが冷えているのか。それとも、もっと別の場所から——。
画面に何かが映った。
蓮の顔の反射ではなかった。ひびの線の奥、黒いガラスの向こう側に、別の映像がある。蓮は息を詰めて目を凝らした。暗い。だが何かがある。ひびの隙間に、もう一つの空間が折り畳まれている。
天井だった。このブースの天井と同じ、安っぽい合板の天井。蛍光灯の半透明カバー。カバーの中で死んでいる虫——いない。蓮が最初の夜に見た、あのカバーの中にへばりついている黒い点が、画面の中の天井には存在しなかった。
蓮は顔を上げて実際の天井を見た。虫はまだそこにいた。蛍光灯カバーの内側で、翅を閉じた小さな蛾が動かずにへばりついている。一週間以上前からずっとそこにいる。死んでいるのか、生きているのか。蓮にはもう分からなくなっていた。
画面に目を戻した。画面の中の天井には虫がいない。蛍光灯のカバーは透明で、内部に汚れもない。それだけの違い。天井の色も形も同じだ。蛍光灯の光り方も同じ。ただ虫がいない。
蓮は手首をゆっくりと動かしてスマホの角度を変えた。画面の中の映像がそれに連動して動いた。カメラが向きを変えるように。天井からブースの壁へ。壁も同じだ。合板の色、継ぎ目の位置、画鋲の穴の跡。右の壁に貼ってある「Wi-Fiパスワード」の紙も同じ——だが、紙の右上の角が違った。実物では右上が内側に折れ曲がって、裏の白い面が見えている。画面の中の紙は四隅がきれいに揃っていた。
微妙に違う。ほとんど同じだが、微妙に違う。虫の有無。紙の角の折れ。そういうレベルの違い。蓮は息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐き出した。指先が震えている。
怖いのではない——いや、怖い。怖いが、それ以上に引き込まれている。画面の中に、この部屋の「少しだけ違うバージョン」が映っている。テレビでもない。カメラでもない。電源すら入らないスマホの黒い画面に、リアルタイムで別の現実が映写されている。
蓮はスマホの角度をさらに傾けた。壁から床へ。画面の中の床には蓮のスリッパがあった。実際と同じ位置。だがスリッパの向きが少し違う。実物は右足が少し斜めになっているが、画面の中では二つが平行に揃っている。
あり得たかもしれない現実。もし虫が死ななかったら。もし紙の角が折れなかったら。もしスリッパをきちんと揃えて脱いでいたら。そういう些細な分岐の先にある、わずかに異なる世界。
蓮がこのスマホを握って追い詰められたとき、画面に映るのは「最も都合のいい分岐」なのだとしたら。追手が転ぶ世界。店員がゴミを出しに来る世界。電話が鳴って追手が去る世界。それらは画面の中の「あり得たかもしれない現実」が、いつの間にかこちら側に採用されたものだったのだとしたら——。
蓮の手が震えた。スマホがかすかに音を立てて手のひらの上で揺れる。
蓮はスマホを裏返して、テーブルに伏せた。見たくなくなった。見続けると、もっと深いところまで理解してしまう。理解したら、もう「偶然だ」と言い逃れることができなくなる。自分が何を持っているのか。何に助けられているのか。その代償として何を支払っているのか。全部を理解してしまったら、もう後戻りできない。
だが伏せた後も、蓮の頭の中には画面の映像が焼きついていた。虫のいない天井。角の折れていない紙。揃えられたスリッパ。ほとんど同じで、ほんの少しだけ違う世界。あちら側の世界は、こちらよりほんの少しだけ清潔で、ほんの少しだけ整っている。それが余計に不気味だった。
蓮はその世界を「見てしまった」のだ。見てしまったことは取り消せない。知ってしまった知識は、脳から削除できない。
リクライニングチェアの背もたれに頭を預けて、天井を見上げた。虫がいる天井。こちら側の、本物の天井。蛍光灯の光が目に痛い。蓮は目を閉じた。瞼の裏にも、ひび割れの模様が残像として浮かんでいた。
ポケットに手を入れた。何もない。スマホはテーブルの上にある。ポケットは空だ。蓮は自分の指先を見つめた。スマホがないポケットに手を入れる癖がついている。無意識に、あの冷たい表面に触ろうとしている。
依存だ、と蓮は思った。この壊れたスマホに、自分は依存し始めている。ポケットに入っていないだけで不安になる。手のひらが冷たさを求めている。あの画面の中の世界をもっと見たいと思っている。
蓮はテーブルの上のスマホに手を伸ばした。裏返したまま——画面を見ないように——ポケットに戻した。冷たさが指先を通して掌に広がり、そこから腕、肩、胸へと沁みていく。蓮はその冷たさに安堵を感じている自分に気づいて、目を閉じた。
エアコンの送風音だけが鳴り続けていた。深夜二時半。蓮は毛布を頭まで引き上げて、画面を見ないまま眠ろうとした。だが指先は、ポケットの中でスマホのひび割れをなぞり続けていた。