小説置き場

第17話「死なないのはなぜか」

報告書は五月二十日付で提出された。提出者は追跡チームの管理者で、この組織の中では名前を使わない。匿名通信アプリのアカウント名は英数字の羅列で、プロフィール画像は灰色の初期アイコンのままだ。報告書もテキストメッセージとして送信される。紙の書類は存在しない。暗号化された文字列がサーバーを経由して、相手の端末に届く。それだけだ。

 宛先は管理者のさらに上にいる人物だった。この人物のアカウント名も英数字の羅列で、過去のメッセージ履歴を見ても指示は最小限の文字数で書かれている。「追え」「報告しろ」「待て」。主語も述語もない、命令だけの言語だ。声を聞いたことはない。会ったこともない。だがこの人物の指示は絶対で、逆らった人間がどうなるかは管理者自身が一度だけ目撃している。それ以来、管理者は一度も指示に疑問を挟んでいない。

 報告書の内容は以下のようなものだった。

「対象:瀬戸蓮(18歳)。元末端実行要員。四月十五日の処理未遂以降、都内北東部を中心に逃走中。追跡を継続しているが、捕捉に至らず」

「追跡経過:計四回の接触を試みた。うち三回は対象を視認し追跡したが、いずれもロスト。残り一回はネットカフェへの聞き込みで所在を特定したが、対象は店舗の従業員の協力を得て退避した」

「問題点:対象の逃走パターンに、説明困難な偶発性が繰り返し観測される」

 ここで管理者は、三回の追跡それぞれについて具体的に記述した。一回目は川崎の工場跡地。追手が対象に追いつく直前に一名が転倒し、同時に近隣の商業施設従業員が外に出て目撃者が発生した。転倒の原因は不明で、路面に障害物はなかった。追手本人に確認したところ、「足がもつれた」としか説明できなかったという。二十代の健康な男が平坦なアスファルトの上で、走っている最中に足がもつれる確率はゼロではないが、そのタイミングが対象の捕捉直前であったことは偶然にしては出来すぎていた。

 二回目は荒川区の住宅地。袋小路に追い込んだ直後、追手の一名の携帯端末が原因不明の誤動作を起こした。アラーム音が大音量で鳴り止まず、画面に意味不明な文字列が表示されて操作を受け付けなくなった。端末は後に正常復帰し、ハードウェアの異常は検出されなかった。メーカーに問い合わせても原因不明という回答だった。

 三回目は綾瀬駅周辺。三方向から追い込みを実施したが、対象は包囲を突破して地下鉄に乗車した。通常では発見困難な建物間の隙間を通り抜けたが、対象がその隙間の存在を事前に把握していたとは考えにくい。地元の住民でもあの隙間を通れることを知っている人間は少ない。

「所見:対象は戦闘能力を持たず、身体能力も平均以下。にもかかわらず、追跡のたびに確率的に極めて低い事象が対象に有利な形で発生している。現場の判断では、単なる幸運として処理できないレベルである」

 報告を送信して、管理者はスマホをテーブルに置いた。ファミリーレストランの窓際の席で、コーヒーが冷めていた。管理者はこの店を事務所代わりに使っている。自宅で仕事をすると生活との境界が曖昧になるからだ。もっとも、この仕事に境界などないのだが。

 返信は四時間後に来た。管理者はその間に冷めたコーヒーを飲み干し、二杯目を注文し、二杯目も半分冷めた頃に通知が鳴った。

「対象に特殊な装備または協力者がいる可能性は」

「調査中。対象の所持品は財布、使用不能の携帯端末一台のみ。協力者はネットカフェの従業員一名を確認したが、一般人と思われる」

「使用不能の携帯端末とは」

「画面の割れた旧型スマートフォン。電源が入らない模様。対象が常時携帯している」

 返信までの間が長かった。十分。通常なら二分以内に返ってくる相手だ。管理者はその十分間、コーヒーカップの取っ手を指で回しながら待った。上が考えている。何かを判断している。

「その端末の情報を共有しろ。写真があれば添付。機種、色、破損状態、何でもいい」

 管理者は追跡チームに連絡を取り、対象の所持品に関する情報を集めた。得られたのは遠距離から撮影された不鮮明な写真一枚で、蓮がベンチに座ってポケットから何かを取り出している場面だった。手のひらの上にあるのは黒い四角形で、画面が蜘蛛の巣状にひび割れているのが辛うじて分かる。

 写真を上に送った。返信は一時間後。

「分かった。引き続き追え。ただし捕捉は急がなくていい。まず行動パターンを記録しろ。特に、その端末を使用する場面があれば詳細に報告しろ」

 指示が変わった。「始末しろ」から「観察しろ」に。管理者はその変化の意味を理解しなかった。上が対象に対する関心の質を変えたことだけは分かったが、なぜ変えたのかは分からない。末端に理由は降りてこない。降りてくるのは指示だけだ。

 管理者はチームに新しい指示を出した。「急がなくていい。泳がせろ。ただし、あのスマホを使う瞬間を見逃すな」

 指示を打ちながら、管理者は自分の手が微かに震えているのに気づいた。緊張ではない。これまで何十人もの末端を管理してきた人間が、十八歳の掃除屋一人に緊張するはずがない。震えているのは、この案件が自分の理解の範囲を超え始めているという直感のせいだった。人が転ぶ。端末が壊れる。存在しないはずの隙間を見つける。それぞれは小さな異常だが、並べると一つの線になる。その線が指しているものが何なのか、管理者には見当もつかなかった。

 送信ボタンを押して、管理者はスマホをテーブルに置いた。窓の外でトラックが通り過ぎていく。ファミリーレストランの照明が白く、コーヒーの水面に天井の蛍光灯が映っている。管理者はその水面を見ながら、自分が追っている十八歳の少年のことを考えた。

 運がいいだけの雑魚なのか。それとも何かを持っている人間なのか。上が態度を変えたということは、後者の可能性が高いのだろう。だとすれば、この案件は管理者の手に余るかもしれなかった。

 この報告が出された五月二十日の夜、蓮は「ナイトクルーズ」の14番ブースで眠っていた。ポケットの中の壊れたスマホは、蓮の体温を吸わないまま、冷たく沈黙している。その沈黙が何を意味しているのかを知る人間は、この時点ではまだ誰もいなかった。