第16話「どちらが正しいか」
コーンスープの件は、始まりに過ぎなかった。その後の四日間で、蓮と美咲の記憶は三度食い違った。どれも些細なことだ。だがその些細さが、蓮の中に積み重なって、無視できない重さになっていく。
五月十六日の夜。蓮と美咲が裏口の駐輪場で話していたときのことだった。美咲がエプロンのポケットからメモを出して言った。「昨日あんたに頼んだの覚えてる? ドリンクバーのオレンジジュースのパック、補充してって」
蓮は覚えていた。だが蓮の記憶では、美咲が頼んだのはオレンジジュースではなくアップルジュースだった。
「アップルじゃなかったですか」
「オレンジだよ。オレンジが切れてたから頼んだの。アップルはまだ在庫あったし」
蓮はバックヤードの在庫棚を確認しに行った。アップルジュースの在庫は三パック残っていて、オレンジはゼロだった。美咲の言うとおりだ。切れているのはオレンジで、蓮の記憶が間違っている——と考えるのが自然だった。
だが蓮の頭の中では、美咲が「アップル」と言った声がはっきり再生される。あのとき美咲はカウンターの右端に立っていて、左手に青いボールペンを持っていて、背後のモニターにはセキュリティカメラの映像が映っていた。声のトーンは少し高めで、語尾が上がっていた。蓮の記憶の中では、場所も声も仕草も含めて、すべてが整合的に「アップル」だった。
記憶が間違っているなら、なぜこんなに細部まで覚えているのか。
五月十七日。夜勤の合間に美咲が蓮に訊いた。「昨日、何時に寝た?」。蓮は「十一時くらい」と答えた。美咲は首を傾げて「十一時? あんた、十二時過ぎまでトイレ掃除してたでしょ」と言った。蓮の記憶では、トイレ掃除は十時半に終わっていた。十時四十分にブースに戻って、リクライニングを倒して、天井の蛍光灯カバーの中の虫を見ながら眠りに落ちた。その記憶がある。だが美咲は十二時過ぎまで蓮が掃除をしていたと言う。
一時間半のズレ。蓮が十時半から十二時までの間に何をしていたのか、美咲の記憶では掃除を続けていたことになっている。蓮の記憶では寝ていた。どちらかが間違えている。
五月十八日。「前に言ってたコンビニの話、どこの店だっけ」と美咲が訊いた。蓮は「駅前の」と答えた。美咲は眉をひそめた。「駅前? あんた、商店街の方って言ってなかった?」。蓮は駅前のコンビニの話をした記憶がある。レジの横にある揚げ物のケースが油で曇っていた、という話だ。商店街のコンビニには行ったことがない。
三日連続で食い違った。ジュースの種類。就寝時間。コンビニの場所。どれも日常の断片で、間違えても生活に支障はない。
だが蓮は、自分の記憶に自信があった。正確に言えば、以前なら自信があった。掃除屋として現場の痕跡を消す仕事をしていた蓮にとって、「何がどこにあったか」を正確に記憶することは生存技術の一部だった。ガムテープの切れ端を一つ見落としたら殴られる世界で、記憶力は蓮の数少ない武器だった。
その武器が壊れ始めている。
工場跡地で追手が転んだ夜から、蓮の記憶には穴が空き始めていた。昨日の夕食が思い出せない。二十四時間分の記憶がまるごと曖昧になる。自分の名前を一瞬忘れる。その延長線上に、今の食い違いがある。スマホの力が発動するたびに、代償として記憶の精度が落ちている。蓮が「アップル」と覚えているのは、実際にはオレンジだったものを脳が書き換えてしまった結果なのかもしれない。
あるいは——もうひとつの可能性がある。
蓮の記憶が正しくて、現実のほうが変わったのだとしたら。スマホが「都合のいい偶然」を現実に採用するとき、採用されなかった方の現実に関する記憶が薄れる。それが代償だとしたら、蓮の記憶と美咲の記憶がズレるのは、二人が微妙に違う現実を生きているからだ。蓮は「書き換わる前の現実」を覚えていて、美咲は「書き換わった後の現実」を覚えている。
蓮はその考えを頭の中で組み立てて、すぐに壊した。考えすぎだ。疲れている。栄養が足りていない。睡眠も不十分だ。脳が誤動作しているだけだ。超常的な理由を持ち出す必要はない。
でも壊したはずの考えが、何度も頭の中で同じ形に再構築される。壊しても壊しても、同じ疑問が戻ってくる。
五月十九日の深夜。蓮は14番ブースでスマホを手に持っていた。ひび割れの線を指でなぞりながら、その向こうに何があるのかを考えていた。
触ると落ち着く。触ると何かが起きる。触るたびに記憶が少しずつ削れる。
その三つが同時に成り立つことが、蓮にはたまらなく怖かった。落ち着きたくて触る。触れば記憶が削れる。記憶が削れれば、やがて美咲のことも忘れるのだろうか。あのカップ麺の味も、裏口に案内してくれた夜のことも、「ありがとうございます」と口から勝手に出た瞬間のことも。
蓮はスマホをテーブルに伏せて、目を閉じた。天井の蛍光灯が合板越しにぼんやり光っている。その光の中に虫がいる。昨日もいた。一昨日もいた。その虫がずっと同じ虫なのか、別の虫に入れ替わっているのか、蓮にはもう確信が持てなかった。
自分が正しいのか、美咲が正しいのか。その問いには答えが出ない。出ないまま、蓮は毎晩この14番ブースで眠りに落ちて、毎朝この14番ブースで目を覚ます。目覚めるたびに、昨夜の記憶を点検する。何を食べたか。何を話したか。美咲の顔を覚えているか。自分の名前を覚えているか。
今のところ、全部覚えている。今のところは。
だが「今のところ」がいつまで続くのか、蓮には分からない。記憶の穴は少しずつ大きくなっている。最初は夕食の内容だった。次は一時間半の空白。次は何だろう。半日か。一日か。あるいは——人の顔か。
美咲の顔を忘れる日が来るのだろうか。ショートカットの髪と、くっきりした目元と、洗剤で荒れた手。あの手がカップ麺をブースの隙間から差し入れてくれたことを、蓮はいつか忘れるのだろうか。
忘れたくない。
その感情が蓮の中に浮かんだのは、逃亡を始めてから初めてのことだった。これまで蓮は「生き延びたい」とは思っても、「忘れたくない」とは思わなかった。忘れたくないものが自分の中にあるという事実が、蓮を少しだけ怖がらせ、そして少しだけ温めた。