小説置き場

第15話「都合がよすぎないか」

2,738文字 約6分

倉田美咲という名前を、蓮は裏口から逃げた夜に知った。名札に書いてあったのは苗字だけだったが、数日後に彼女が同僚と話しているのを聞いて、下の名前も分かった。美咲。二十一歳。蓮より三つ年上で、専門学校を中退してからずっとこの深夜シフトを回しているらしい。

 裏口の一件以来、蓮と美咲の関係は微妙に変わった。蓮は「ナイトクルーズ」に通い続けていたが、もう金を払っていなかった。美咲が蓮のブース代を毎晩自分のポケットから出していた。一晩千八百円。月に五万四千円。深夜のネットカフェ店員の給料から出せる額ではない。

 蓮はそれを知っていて、止めなかった。止められなかった。他に眠れる場所がなかったからだ。公園のベンチは五月に入っても夜は冷えるし、何より人目がある。ネットカフェの個室だけが、蓮にとって唯一の安全圏だった。薄い壁と安っぽいリクライニングチェアに囲まれた、一畳半の暗闘。そこだけが、追手の視線から逃れられる場所だった。

 代わりに蓮は、美咲の夜勤中にできる雑務を引き受けるようになった。ゴミ出し、トイレ掃除、ドリンクバーの補充。掃除は得意だ。蓮の手にかかると、トイレの鏡は曇り一つなく光る。洗面台の水垢も、便器の黄ばみも、蓮は黙々と落とした。手を動かしている間は考えなくて済む。自分が何から逃げているのか、どこへ向かっているのか、そういうことを棚上げにできる。

 美咲はそれを見て「あんた、掃除だけは異常にうまいね」と言った。蓮は「慣れてるんで」とだけ答えた。慣れている理由は言わなかった。トクリュウの末端にいた頃、先輩から最初に叩き込まれたのが掃除だった。証拠を残すな。痕跡を消せ。それが掃除という形で蓮の体に染みついている。

 五月十四日の深夜、蓮がゴミ袋を裏口から出しに行ったとき、駐輪場の向こうの道路に見覚えのある男が立っているのが見えた。グレーのパーカー。フードは被っていないが、右手にスマートフォンを持っている。一ヶ月前に袋小路で蓮を追い詰めた男だ。あのときの距離は三メートルだった。男の息遣いまで聞こえた。今は三十メートル。だが距離があるからといって安全ではない。

 蓮はゴミ袋を地面に置いて、防火扉の内側に戻った。心臓が喉の奥で暴れている。背中の汗が一気に冷えた。見つかったのか。それとも偶然通りかかっただけか。偶然ならいい。だが偶然ではない気がする。蓮の直感は、逃げろと叫んでいた。

 店内に戻ると、美咲がカウンターにいた。レジ横のモニターに映る防犯カメラの映像を、退屈そうに眺めている。蓮の顔を見て眉をひそめた。

「どうしたの。顔色悪い」

「外に人がいます」

 蓮の声は自分で思ったより平坦だった。感情を殺す癖がついている。動揺を顔に出さない。それもトクリュウ時代の訓練の残滓だ。

 美咲は何も聞かずに裏口を見に行った。足音も立てずに、まるで深夜の巡回が日常であるかのように。戻ってきたときの顔は平静だった。

「確かにいるね。パーカーの男。煙草吸ってる。こっち見てるかどうかは分からない」

「たぶん見てます」

「たぶん?」

「前に追いかけてきた人です」

 美咲は蓮を見た。一秒。二秒。瞳の奥に何かの計算が走ったように見えた。蓮が何者で、何に追われているのか。美咲はまだ何も聞いていない。聞かないまま、蓮を匿い続けている。それが優しさなのか、無関心なのか、蓮には判断がつかなかった。

 美咲が小さく息を吐いた。

「14番にいなよ。私が見てるから」

 蓮はブースに戻った。リクライニングチェアに座ったまま、膝に力が入らなかった。薄暗い個室の中で、モニターの待機画面だけが青白く光っている。その光が壁に反射して、蓮の手元をぼんやり照らしていた。

 ポケットのスマホに手が伸びる。冷たい。掌に冷たさが広がる。五月の室温なのに、このスマホだけはいつも冷えている。触ると落ち着く。触ると何かが起きる。触ると——蓮はその先を考えないようにした。考えると、期待してしまう。期待してしまうと、依存する。

 ひび割れた画面を親指でなぞった。蜘蛛の巣状の亀裂が指紋に引っかかる。電源は入らない。通話もできない。ネットにも繋がらない。ただの壊れたガラスの塊のはずだ。なのに蓮はこれを手放せない。手放したら、次に追い詰められたとき、本当に終わる気がした。

 十五分後、美咲がブースのドアを叩いた。

「いなくなった。急に電話が来て、走って行った」

 蓮は目を閉じた。また都合がいい。追手が去る理由がちょうどいいタイミングで発生する。電話が来た。別の用事ができた。偶然。偶然。偶然。四回目の追跡で、四回目の偶然。確率的にありえない。蓮は数学が得意ではないが、それくらいは分かる。

「よかったね」と美咲が言った。声はいつも通り淡白だった。

「……はい」

 蓮はブースのドアを少しだけ開けて、美咲の横顔を見た。蛍光灯の下で、美咲の肌は青白く見えた。目の下に薄い隈がある。深夜勤務の代償だろう。蓮のせいで余計な心配が増えているのだと思うと、胸の奥がざらついた。

「ねえ蓮。昨日さ、あんたコーンスープのおかわり何杯飲んだっけ」

 唐突な質問だった。蓮は昨日のことを思い返した。ドリンクバーの横にある、押すとぬるいスープが出てくるサーバー。紙コップに注いで、カウンターの隅で立ったまま飲んだ。

「三杯だと思います」

「三杯? 私は二杯って聞いた気がするんだけど」

 些細な食い違いだった。コーンスープが二杯か三杯かなど、どうでもいい話だ。だが蓮の背中にまた冷たいものが走った。スマホの冷たさとは違う、もっと内側から来る寒気だ。

 記憶が食い違っている。蓮の記憶では三杯飲んだ。美咲は二杯だと記憶している。どちらかが間違えている。普通なら蓮の記憶違いだろう。疲れているし、栄養も足りていない。睡眠だって浅い。

 だが蓮には、三杯飲んだ記憶がはっきりあった。一杯目はぬるくて、粉っぽい味がした。二杯目は適温で、少しだけ濃かった。三杯目は少し熱くて、舌の先を軽く火傷した。三つの温度の違いを、三つの味の違いを、蓮は覚えている。

 美咲が間違えているのか。それとも——美咲の記憶の中では、蓮は本当に二杯しか飲んでいないのか。蓮が三杯目を飲んだという事実が、美咲の記憶には存在しないのか。まるで誰かが美咲の記憶から、三杯目だけを丁寧に抜き取ったかのように。

 スマホが手のひらの中で冷えている。蓮はそれを握りしめたまま、「どっちだったかな」と曖昧に答えた。美咲はそれ以上追及しなかった。ただ小さく肩をすくめて、カウンターに戻っていった。

 蓮はブースのドアを閉めた。暗闇の中で、スマホの冷たさだけが手のひらに残っていた。都合のいい偶然と、食い違う記憶。その二つが同じ根から生えているのだとしたら、蓮はもう引き返せない場所にいる。