小説置き場

第14話「裏口はどこか」

2,873文字 約6分

あのカップ麺から三日後の五月十日、蓮はまだ「ナイトクルーズ」にいた。金はない。とっくにゼロだ。だが夜勤の女——名札をようやく読める距離で見たとき、「倉田」と書いてあった——が、蓮のブースに一日一回、何かを差し入れてくれるようになっていた。

 カップ麺。おにぎり一個。パンの耳の入ったビニール袋。賞味期限の切れた菓子パン。どれもスタッフルームの余り物か、廃棄予定の在庫なのだろう。蓮は何も聞かなかったし、倉田も何も説明しなかった。ブースの扉の下の隙間から差し入れが音もなく滑り込んでくる。それだけの関係だった。言葉はいらなかった。むしろ言葉がないことが、この関係を成立させている気がした。

 蓮は倉田の顔を見ないようにしていた。目を合わせると、何か言わなければならない気がしたからだ。礼を言うべきなのは分かっている。だが蓮は礼の言い方を知らなかった。正確には、言い方は知っているが、言う練習をしてこなかった。トクリュウの世界では、礼は弱さの表明だった。弱さを見せれば搾取される。感謝を口にすれば、それは借りを認めたことになる。借りは利子をつけて回収される。

 だから蓮は黙っていた。黙って受け取り、黙って食べ、黙って扉の下にカップ麺の空き容器を滑らせた。倉田がそれを回収しているのかどうかすら、確認していなかった。

 五月十日の夜。午前一時を回った頃だった。蓮が14番ブースで壊れたスマホの画面をぼんやり眺めていたとき、ブースの扉が叩かれた。差し入れのときとは違う。三回、速い、硬いノックだった。指の関節で叩いている音だ。

 蓮の体が反射的に硬直した。リクライニングから体を起こし、足音を立てずに立ち上がった。呼吸を止めて、扉の向こうの気配を探る。

 扉を開けると、倉田が立っていた。顔が硬い。いつもの無表情とは違う硬さだった。眉間に皺が寄って、唇が一文字に引き結ばれている。

「裏口から出て」

 声は低かった。囁くような音量で、だが明瞭だった。蓮の背中に冷たいものが走った。脊髄を氷の棒で撫でられたような感覚だ。

「表に男が二人いる。さっき入ってきて、受付でスマホの画面見せて、こういう顔の男がここに来てないかって」

 蓮の血の気が引いた。写真を見せて回っている。追手だ。トクリュウの連中がネットカフェを一軒ずつ当たっている。足立区に蓮がいることは割れていた。それは分かっていた。だが、ついにこの店まで来た。網が狭まっている。

「裏口、どこですか」

 蓮の声は自分でも驚くほど平静だった。体の中では心臓が暴れているのに、声だけが切り離されたように冷たかった。これもトクリュウで身についた技術だ。パニックを表に出さない。出した瞬間に食い物にされる。

「ついてきて」

 倉田は踵を返した。蓮はブースを出て、倉田の後を追った。通路は蛍光灯の白い光で照らされていて、他のブースからはキーボードを叩く音や、動画の音声が微かに漏れている。日常の音だ。その日常の中を、蓮は逃亡者として歩いている。

 通路の突き当たりに「従業員専用」と書かれたドアがあった。倉田がカードキーをかざすと、ロックが外れる音がした。ドアの向こうは狭いバックヤードだった。段ボール箱が壁際に積まれ、ドリンクの在庫が棚に並んでいる。蛍光灯が一本切れかけていて、不規則に明滅していた。その光の中で、倉田の横顔が白く浮かんだ。

 バックヤードの奥に、灰色の金属製の防火扉があった。非常口のマークが緑色に光っている。

「ここ出ると裏の駐輪場。フェンス沿いに右に行くと路地に出る。左に曲がれば大通り」

 倉田の説明は簡潔だった。道順を知っている。この裏口を使ったことがあるのだろう。蓮は防火扉の取っ手に手をかけた。金属の冷たさが掌に伝わった。

 倉田が後ろから言った。

「事情は聞かない。聞いたら面倒になるし、あんたも話したくないでしょ」

 蓮は振り返った。倉田の顔は相変わらず硬かった。だが怒っているのではなかった。怖がっているのとも違う。冷静に判断をしている顔だった。状況を見て、自分に何ができるかを測って、リスクを計算して、できることだけをやる。そういう顔だ。蓮はトクリュウの世界で似たような顔を何度も見てきた。だが倉田のそれは、質が違った。

「でも、店の前で客が捕まるのは困るの。営業に差し障るから」

 それが理由だ、と倉田は言い切った。蓮を助けたいからではなく、店に迷惑がかかるからだ。少なくとも倉田はそう説明した。声のトーンに揺らぎはなかった。

 蓮にはその説明が嘘だと分かった。嘘だと分かったのは、倉田の目が蓮の顔をまっすぐ見ていたからだ。本当に店の都合だけなら、もっと事務的に処理できる。受付で「そんな人はいません」と言って追い返せば済む。わざわざブースまで来て、裏口まで案内して、道順まで教える必要はない。

 でも蓮はそれを指摘しなかった。倉田が「営業の都合」と言い張るなら、そういうことにしておくのが正しい。人の好意を好意と呼ぶと、相手に借りができる。借りは返さなければならない。返せない借りは負債になる。蓮はその力学を骨の髄まで知っている。だから好意を好意と呼ばない。呼ばないことが、倉田に対する蓮なりの礼儀だった。

「ありがとうございます」

 口から出た言葉に、蓮自身が驚いた。言うつもりはなかった。頭が制御する前に、口が勝手に動いていた。体が勝手に反応するのと同じだ。たぶんこの三日間のカップ麺とおにぎりとパンの耳が、蓮の中で何かの閾値を超えたのだ。言葉が喉の奥から押し出されてきて、唇を通り過ぎていった。

 倉田は一瞬だけ目を丸くした。それからいつもの硬い顔に戻った。まばたき一つ分の変化だった。

「早く行きなよ」

 蓮は防火扉を押し開けた。ぎい、と金属の軋む音がした。夜気が流れ込んできた。五月の夜風が汗ばんだ首筋に当たって、一瞬だけ体温を奪っていく。駐輪場には自転車が数台並んでいて、その向こうにフェンスが見えた。

 走った。フェンス沿いに右へ。路地に出て、左へ。大通りの明かりが前方に見えた。人通りがまだある時間帯だ。紛れられる。フードを被り、背中を丸めて、歩幅を小さくした。走ると目立つ。歩くほうがいい。呼吸を整えて、心拍を抑えた。

 大通りに出て、流れに混ざった。コンビニの明かり、居酒屋の看板、タクシーのテールランプ。日常の風景の中に蓮は溶け込んだ。誰も蓮を見ていない。透明人間に戻れた。

 歩きながら、蓮は自分の口が発した「ありがとうございます」を反芻していた。あの五文字を最後に口にしたのはいつだったか。思い出せなかった。トクリュウに入る前か。母親がまだいた頃か。記憶を遡っても、その言葉が自分の声で再生される場面が見つからない。

 ポケットのスマホが冷たい。ひび割れたガラスの感触が指先に触れる。だが今夜は、その冷たさの隣に、カップ麺と裏口の記憶がある。倉田の硬い顔と、「早く行きなよ」という声がある。

 蓮はそれを、まだ名前のない感情として胸の底に沈めた。名前をつければ壊れそうな気がした。名前のないまま持っていれば、もう少しだけ長く、その温度を保てるかもしれなかった。