結局、蓮は「ナイトクルーズ」に戻った。金がないのに戻った理由は単純で、他に行く場所が思いつかなかったからだ。公園のベンチで三日間を過ごして、蓮は体力の限界が近いことを悟った。屋根がいる。横になれる場所がいる。水道の水だけでは、あと二日も持たない。
足立区の裏通りを歩いて、見慣れたネオンサインを見上げた。「ナイトクルーズ」の青い看板が夜の空気の中でぼんやり光っている。自動ドアを押して中に入ると、消毒液とインスタントコーヒーの混ざった匂いがした。この匂いを嗅ぐのは久しぶりだった。ほっとする自分がいて、蓮はその感覚に少し戸惑った。
受付に立つと、あの夜勤の女がいた。ショートカットの髪、くすんだグレーのカーディガン、乾燥してささくれた手。蓮が数日前に精算して出て行ったときと同じ格好だった。名札がカーディガンの胸ポケットに留まっている。文字は読める距離ではなかった。
「三時間パックで」
蓮は二百四十円をカウンターに置いた。硬貨が樹脂の天板に当たって、乾いた音を立てた。三時間パックは四百八十円だ。半分しかない。分かっていて置いた。どうせ追い出されるなら、受付まで来てから追い出されたほうが、少しだけ長く屋根の下にいられる。その数分間のために、蓮はここまで歩いてきたのだ。
女は二百四十円を見た。百円玉が二枚、十円玉が四枚。蓮の顔を見た。また二百四十円を見た。その視線の往復が妙にゆっくりで、蓮は拒絶の言葉を待って体を硬くした。
「……あんた、前も来てたよね」
蓮は答えなかった。答える義務はないし、答えればそこから会話が始まる。会話が始まれば情報が漏れる。トクリュウにいた頃に叩き込まれた習慣が、蓮の口を閉じさせていた。
「二週間くらい前から。毎日来てた。フード被って、ずっとブースにいて。出てくるのはトイレとドリンクバーのときだけ」
覚えられていた。蓮は同じ場所に二泊しないルールを守っていたつもりだったが、それは別の店との間で回す話であって、「ナイトクルーズ」には確かに何度か通っていた。夜勤の店員の顔は毎回違うと思い込んでいたが、この女はずっと同じシフトで、ずっと蓮を見ていたのだ。蓮の警戒が甘かったと認めるしかなかった。
「事情は聞かない」
女はそう言うと、二百四十円をレジに入れた。それから自分のカーディガンのポケットに手を入れて、小銭を取り出した。百円玉二枚と十円玉四枚。蓮と同じ額だ。それを同じようにレジに入れた。ピッと精算音が鳴った。
「三時間パック。ブースは奥の14番が空いてる」
蓮は動けなかった。何が起きたのか理解するのに数秒かかった。この女は、蓮の足りない分を自分の金で補填した。二百四十円。なぜ。見ず知らずの、しかも明らかに訳ありの客のために。
「何見てんの。早く行きなよ、他のお客さん来るから」
女の声は平坦だった。恩を着せる気配はなかった。カウンターの奥のパソコンにもう視線を戻していて、蓮がそこにいることすら忘れたかのような態度だった。
蓮はカードキーを受け取って、14番ブースに入った。狭い個室にリクライニングチェアが一つ。小さなデスクにモニターが置いてある。蓮はチェアに座って、しばらくぼんやりしていた。手のひらの中にカードキーの硬い感触がある。プラスチックの角が皮膚に食い込んで、それが今の蓮にとっては現実との接点だった。
たった二百四十円。されど二百四十円。蓮の全財産と同じ額を、見ず知らずの夜勤店員が黙って出した。その事実がうまく飲み込めなくて、蓮は何度も頭の中で反復した。
三十分ほど経ったとき、ブースの扉の下の隙間から、何かが差し入れられた。カサッと乾いた音がした。
カップ麺だった。シーフード味。封は開いていない。コンビニで買えば百五十円くらいのやつだ。その下に紙ナプキンが一枚敷いてあって、ボールペンで「給湯器は通路の奥」と書いてあった。丸みのある、崩れた字だった。
蓮はカップ麺を手に取った。軽い。百グラムもない乾燥麺の塊。だが蓮にとっては、この三日間で初めての固形物だった。唾液が口の中に溢れて、顎の関節が痛んだ。
ブースを出て、通路の奥の給湯器まで歩いた。お湯を注いだ。蓋を押さえて、三分待った。給湯器の横の壁に背中を預けて、カップ麺を両手で抱えた。底から伝わる熱が手のひらに染みる。三分がとてつもなく長く感じた。秒針のない時計を見つめているような気分だった。
蓋を開けると、海鮮の匂いが鼻腔に広がった。エビとイカの出汁の匂い。唾液腺が痛いほど反応して、胃の底が痙攣するようにぐっと縮んだ。
食べた。プラスチックのフォークで麺を掬い上げ、口に運んだ。麺が舌に触れた瞬間、目の奥が熱くなった。塩味と旨味が口の中に広がって、体が震えた。泣いているのではない。空腹の体に塩分と炭水化物が入ってきた生理反応だ。そう自分に言い聞かせた。涙腺の問題であって、感情の問題ではない。泣いているのではない。
食べ終わって、空のカップを持ってブースを出た。通路のゴミ箱に捨てて、受付の方を見た。あの女はカウンターの奥でパソコンの画面を見ていた。蓮に気づいたようだったが、顔を上げなかった。蓮も何も言わなかった。そのまま視線を外して、ブースに戻った。
リクライニングを倒した。腹に食べ物が入っている。たったカップ麺一つだが、体が温かい。指先の冷えが引いていて、爪の先まで血が巡っている感覚がある。蓮は天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に沁みた。
ポケットの壊れたスマホに触れた。冷たかった。いつも通りの、金属とガラスの冷たさだ。だがカップ麺を食べた後の体の温かさが、スマホの冷たさをいつもより鮮明に際立たせた。温かさがなければ、冷たさも分からない。
あの女は、なぜ余分にカップ麺を置いたのだろう。
蓮にとって、人が理由もなく親切にする動機が分からなかった。損得で物事を判断する世界にいたからだ。トクリュウでは、何かをしてもらったら何かを返さなければならない。牛丼を食わせてもらったら頼みごとを断れない。缶コーヒーを奢られたら、次の仕事で文句を言えない。それが蓮の知っている人間関係の全部だった。
あの女は蓮に何を返させるつもりなのか。情報か。労働力か。それとも、もっと別の何かか。
もし何も返させるつもりがないなら。本当に、ただカップ麺を一つ余分に置いただけなら。それは蓮がこれまでの十八年間で一度も経験したことのない種類の行為だった。名前を知らない。そういうものがこの世にあることは知っているが、自分に向けられたことがない。
蓮は目を閉じた。カップ麺の残り香がブースの空気に溶けていた。シーフードの出汁の匂いが、蛍光灯の光の下で少しずつ薄れていく。三時間後には出なければならない。金がないのだから延長はできない。でも今は、この三時間だけは、蓮は屋根の下にいて、腹に食べ物が入っていて、体が温かかった。
それだけで十分だと、蓮は思った。十分すぎるほどだった。