小説置き場

第11話「安全とは何か」

五月に入って、蓮は一つのネットカフェに腰を据えることにした。足立区の幹線道路沿いにある「ナイトクルーズ」という店で、看板の蛍光灯が半分切れていて、入口の自動ドアのセンサーの反応が鈍い。二十四時間営業、身分証不要、現金払い可。蓮が求めていた条件をすべて満たしている店だった。

 同じ場所に留まるのは危険だ、というルールを蓮自身が作ったのは二週間前のことだ。それを破る理由は単純で、金がなくなった。残金は千二百円。ネットカフェのナイトパック一泊分にも足りない。移動するにも電車賃がいるし、別の店に行くにも入場料がいる。動けば金が減る。動かなければ見つかるかもしれない。どちらに転んでも詰んでいるなら、せめて屋根のある場所で詰みたかった。

 蓮は受付で三時間パック——四百八十円——を選んだ。残りは七百二十円。明日の食事代にもならない額だ。

 カードキーを受け取って、14番ブースに入る。一畳半の個室。リクライニングチェアとテーブルと小さなモニターが詰め込まれた空間は、蓮がこの三週間で最も長い時間を過ごしてきた種類の場所だった。壁は薄い合板で、隣のブースからキーボードを叩く音がかすかに聞こえる。天井の蛍光灯カバーの中に、小さな虫が死んでいるのが透けて見えた。

 蓮はリクライニングを倒して天井を見上げたまま、これからどうするかを考えた。考えるのは相変わらず苦手だった。蓮の強みは体が先に動くことで、じっくり計画を立てるタイプではない。だが体を動かす先がない以上、頭を使うしかなかった。

 金を稼ぐ方法。日雇いの現場仕事なら身分証なしで雇ってもらえる場所がある。建設現場の手元作業、引っ越しの補助、倉庫の仕分け。どれも体力勝負だが、蓮の体力はこの三週間のネットカフェ生活で確実に落ちている。もっとも問題はそこではない。問題は、人前に顔を出すことだ。

 日雇いの現場には元請けの人間がいて、他の作業員がいて、休憩時間には顔を合わせて弁当を食べる。蓮の顔写真はトクリュウの追跡チームに共有されている。不鮮明な写真だと報告書には書いてあったが——蓮は報告書を読んだわけではない。だが追手が写真を見せて回っていることは、ネットカフェの受付に来た二人組の行動から推測できた。日雇いの現場にトクリュウの息がかかっている可能性は低い。低いが、ゼロではない。ゼロでないリスクを取るほど、蓮は追い詰められている——のだが、追い詰められているからこそリスクを取れない、という矛盾に蓮は嵌まっていた。

 目を閉じた。考えても答えが出ない。出ないまま、三時間パックの時間が過ぎていく。ドリンクバーに行って、紙コップにコーンスープを注いで戻った。ぬるい。だが胃に入れるものがこれしかなかった。スープの塩分が舌に染みて、空腹がかえって際立つ。腹が鳴った。リクライニングチェアの上で、蓮の腹が情けない音を立てた。

 翌日も蓮は「ナイトクルーズ」にいた。三時間パックを繰り返して、昼間はドリンクバーのコーンスープで腹を満たし、夜はリクライニングチェアで眠る。眠るといっても浅い眠りで、二時間おきに目が覚めた。チェアの背もたれの角度が微妙に合わなくて腰が痛むし、隣のブースの客が深夜に動画を見始めると、イヤホンから漏れる音で起こされる。

 それでも路上よりはましだった。屋根がある。壁がある。鍵のかかるドアがある。蓮にとってこの一畳半の空間は、逃亡を始めてから初めて手に入れた「自分の場所」だった。一時的な、三時間ごとに延長が必要な、他の誰かの名前で契約された場所。だがそれでも、蓮はここにいるとき壁に背中を預けることができた。壁に背中を預けるという、ただそれだけのことが、路上では許されない贅沢だった。

 昼間に一度だけ外に出た。近くのコンビニのゴミ箱を漁ろうとして、防犯カメラの存在に気づいてやめた。蓮はまだそこまで落ちたくなかった。落ちたくないという感覚がまだ残っていることに、小さな安堵を覚えた。この感覚がなくなったら、たぶん蓮は終わりだ。

 三日目には残金が二百四十円になった。コンビニのおにぎり一個すら買えない額だ。空腹が思考を鈍らせていた。頭がぼんやりして、ブースの中で座っているだけで目が霞む。最後にまともなものを食べたのはいつだったか。二日前のカロリーメイト一本。それ以降はドリンクバーのスープだけだ。コーンスープの粉末を溶かしたぬるい液体を、一日に三杯。それが蓮の全栄養だった。

 体が軽い。軽いというのは良い意味ではなく、中身が空っぽだという意味だ。腕を持ち上げると二拍遅れて動く感じがする。指先が冷たい。これは壊れたスマホの冷たさとは違う、栄養不足で末端の血流が落ちている冷たさだった。

 ポケットの中のスマホに手が伸びた。こちらの冷たさはいつもと同じだ。触ると少しだけ落ち着く。だがそれは、このスマホが何かをしてくれるからではない。何もしてくれない。電源は入らないし、誰にも連絡できない。ただ冷たいだけだ。冷たいだけのものに触れて安心している自分がいて、その自分がどうしようもなく情けなかった。

 蓮はスマホをテーブルに置いて、ブースを出た。受付のカウンターに向かう。延長料金を払う金はもうない。出るしかなかった。

 カウンターに立ったとき、受付の向こう側に女がいた。二十歳前後。ショートカットの髪。制服の上にグレーのカーディガンを羽織っている。化粧は薄いが、目元がくっきりしていて顔の印象が強い。手が荒れている。洗剤焼けだろう。夜勤の店員だ。前にも見たことがある気がしたが、ネットカフェの店員の顔を蓮はいちいち覚えていなかった。

 女は蓮を見て、一瞬だけ眉を動かした。蓮の顔を知っている目だった。「また来た」という認識が顔に出ている。だが何も言わなかった。カードキーを受け取り、精算を済ませ、レシートを渡した。蓮はレシートを受け取って、店を出た。

 外は五月の朝で、空気がぬるかった。風が頬を撫でた。日差しが目に痛い。三日間、蛍光灯の下にいた目には、自然光が刺激的すぎた。蓮は目を細めて、どこへ行くあてもない朝の街を歩き始めた。ポケットの中のスマホだけが、季節を無視したように冷たかった。