小説置き場

第10話「なぜ生きたか」

2,764文字 約6分

追い込みは、三方向から同時に来た。蓮が異変に気づいたのは午後四時、綾瀬の駅前を歩いているときだった。百メートルほど前方に、グレーのパーカーの男が立っている。先週、袋小路で蓮を追い詰めたあの男だ。顔を覚えている。向こうもこちらを見ていた。目が合った瞬間、男がスマホを耳に当てた。連絡を入れている。

 蓮は振り返った。後方の横断歩道を渡ってくる男が一人。赤いスニーカー。もう一人の追手だ。蓮の前後を塞いでいる。

 左に折れて路地に入ろうとしたとき、路地の奥から三人目が現れた。知らない男。三十代、黒いキャップ、厚い体格。蓮は見たことがないが、男の目つきには迷いがなかった。蓮の顔を知っている。

 三人。前と後ろと横。蓮が逃げられる方向は右側だけだった。右側は大通りに面している。人通りはあるが、大通りに出ればさらに追手がいる可能性がある。逃げ場を限定して、大通り側に別の人間を配置する——それが追い込みの基本形だ。蓮は掃除屋の仕事で、追い込みの後始末をしたことがある。追い込まれる側になるとは思わなかった。

 蓮は走り出した。右ではなく、左の路地に向かって。三人目の男が立っている方向だ。男は蓮が向かってくると思わなかったらしく、一瞬だけ反応が遅れた。その一瞬で蓮は男の横をすり抜け、路地の奥に飛び込んだ。

 背後で怒声。足音が三つ分、追いかけてくる。蓮は路地を走った。左に曲がり、塀と塀の間を抜け、駐輪場を横切り、アパートの裏手に出た。だがそこも行き止まりだった。正確には行き止まりではなく、フェンスで仕切られた先に別の路地が見えている。フェンスは低い。一メートル半ほど。乗り越えられる。

 蓮がフェンスに手をかけた瞬間、横から腕が伸びてきた。

 黒いキャップの男だった。別のルートで回り込んでいた。蓮の上着の襟を掴んでいる。太い指が首の後ろに食い込んで、蓮の体が引き戻された。足が浮いた。背中がフェンスに叩きつけられて、息が止まった。

 男の顔が近い。煙草の匂いがする。男は蓮を片手で押さえたまま、もう片方の手でスマホを取り出した。報告するつもりだ。「捕まえた」と。

 蓮の体が恐怖で硬直している。動けない。腕も足も、自分のものではないように重い。視界が狭くなっている。男の顔と、その向こうの曇った空だけが見えている。

 ポケットの中で、スマホが冷たくなった。

 触っていない。手は男に掴まれた上着の中で動けないでいる。なのにポケットの壊れたスマホが、布越しでも分かるほどの冷気を発していた。太ももが冷たい。皮膚の温度が奪われていくような、芯から冷える感覚。

 蓮は男の目を見ていた。男はスマホの画面を見ていた。その画面に何かが起きた。蓮からは見えない角度だったが、男の表情が変わった。怪訝な顔。画面に想定外のものが表示されている。

 そのとき、蓮のポケットの中の壊れたスマホの画面が——電源が入っていないはずのその画面が——一瞬だけ、光った。

 光った、と言えるのかどうか分からない。蓮の目は男のほうを向いていた。スマホを直接見てはいない。だが太ももに当たっている画面から、布越しに何かが透けたのだ。暗い中に浮かぶ線のようなもの。道のようなもの。今いる場所の地図のような——

 蓮の体が動いた。

 考えたのではない。考える余裕はなかった。体が勝手に動いた。男の手を振り払うのではなく、上着ごと脱いだ。ジッパーを下げ、両腕を抜いて、上着を男の手に残したまま体だけが抜け出した。Tシャツ一枚になった蓮は、フェンスに飛びついた。今度は掴む手がない。一メートル半のフェンスを乗り越え、向こう側に着地した。

 そして走った。走りながら、頭の中に道が見えていた。見えていたというより、「知っていた」。この路地を五十メートル進んで右に曲がると、建物と建物の間に五十センチほどの隙間がある。そこを抜ければ大通りの裏に出て、さらに二十メートル先に地下鉄の入口がある。地下に降りれば追手は追えない。改札を現金で通って、電車に乗れば逃げ切れる。

 なぜそれが分かるのか、蓮には分からなかった。この場所を歩いたことは一度もない。地図で調べたこともない。なのに確信があった。五十メートル、右、隙間、大通りの裏、地下鉄。その通りに体が動いた。

 五十メートル走って右に曲がった。建物の隙間があった。五十センチ。蓮の体なら横向きで通れる。体を滑り込ませ、コンクリートの壁に肩を擦りながら抜けた。大通りの裏に出た。二十メートル先に地下鉄のマークが見えた。階段を駆け下りて、改札に千円札を突っ込んで、最低区間の切符を買った。ホームに降りると、電車が来ていた。ドアが閉まる三秒前に飛び乗った。

 ドアが閉まる。電車が動き出す。窓の外でホームが流れていく。

 追手の姿はなかった。

 蓮は座席に崩れ落ちた。Tシャツ一枚で、上着を失い、息が荒く、全身が汗で濡れている。向かいの座席に座っている老婆が、心配そうな顔で蓮を見ていた。蓮はそれに気づかなかった。

 右目のノイズが戻っていた。前回より強い。灰色の粒子が視野の右半分をちらつかせている。左目は正常だ。右目だけが、別の世界を見ているような不協和音を奏でている。

 そして——蓮は自分の名前を忘れていた。

 一瞬だけ。電車の窓に映る自分の顔を見て、「これは誰だ」と思った。三秒か五秒、自分が自分であるという確信が消えた。顔は知っている。この顔は見たことがある。でも名前が出てこない。何という名前の人間なのか、この体の持ち主は——

 瀬戸蓮。

 名前が戻ってきた。唐突に、何の脈絡もなく、「瀬戸蓮」という文字列が頭の中に落ちてきた。自分の名前だ。間違いない。蓮はその名前を三回、口の中で唱えた。せと、れん。せと、れん。せと、れん。

 手が震えていた。追手から逃げた恐怖ではなかった。自分の名前を忘れた恐怖だった。三秒から五秒、自分が誰なのか分からなくなった。たった数秒だ。でもその数秒の空白は、工場跡地の夜に記憶が飛んだことよりも、昨日の夕食を忘れたことよりも、ずっと怖かった。

 壊れたスマホがポケットの中で冷たさを失いつつあった。体温が移り始めている。今回は発動の後に冷たさが戻っている。前回までは冷たいままだった。何かが変わっている。何が変わったのか蓮には分からないが、変わっていることだけは分かった。

 電車が次の駅に停まった。蓮は降りなかった。どこに行くかも決めていなかった。ただ座席に座って、自分の名前を繰り返していた。

 俺は瀬戸蓮だ。十八歳だ。トクリュウの掃除屋だった。今は逃げている。ポケットには壊れたスマホがある。そのスマホは、俺が追い詰められるたびに世界を歪める。そして歪めるたびに、俺の中から何かが消える。

 俺は、なんで生き延びてるんだ。

 その問いに答えてくれる人間は、電車の中にも、蓮の知る世界のどこにも、いなかった。