先輩の機嫌は、車に乗り込む足音で分かる。コンビニの駐車場の隅に立って缶コーヒーを傾けながら、瀬戸蓮はそのことを考えていた。四月の夜は中途半端な気温で、上着を着ていると暑いし脱ぐと肌寒い。駐車場の端に設置されたLED照明が白々と地面を照らしていて、蛾が何匹か光のまわりを回っている。
蓮はその光を避けるようにして自販機の影に立っていた。光の下に長くいると目立つ。目立つと覚えられる。覚えられると、何かあったときに面倒になる。そういう計算を、蓮はもう意識せずにやるようになっていた。
白いワンボックスが駐車場に入ってきて、レジ前の明かりを避けるようにして奥のスペースに停まる。ドアが開く。今夜の江藤は足音が硬い。右足を先に車内に入れたから急いでいるし、助手席にバッグを投げなかったから中身が重い。つまり今夜の回収はそれなりの量がある。
それだけのことを蓮は缶を口に当てたまま読み取っていて、自分がそういう読み方をしていること自体には、もうとっくに慣れていた。
「おい、蓮。乗れ」
江藤が窓越しに顎をしゃくった。三十代の前半で、坊主頭に革のジャケット、左手の薬指に安っぽいシルバーのリングをはめている。蓮がこの仕事を始めてから半年、江藤の外見は変わらないが、車のナンバープレートだけは二週間おきに変わった。
今夜のプレートも先週と違う。中古で買い替えたのか盗んだのかは聞かない。聞いていいことと悪いことの線引きは、この仕事で最初に覚えるべきことのひとつだ。
蓮は缶コーヒーの残りを一口で飲み干した。四月の夜のぬるさがそのまま移ったような味がして、舌の上に薄い苦みだけが残った。
空き缶をゴミ箱に入れようとして、ふとやめた。指紋がつく。自分の指紋が照合されるようなデータベースに登録されているとは思わないが、癖になっていた。缶をジャケットの内ポケットに入れて、車に向かった。
後部座席に滑り込むと、知らない男がもう一人座っていた。二十代の半ばに見える。日焼けした首に、右手の甲に小さなタトゥー。車内にその男の体臭がかすかに漂っていて、煙草とエナジードリンクが混ざった甘ったるい匂いだった。
目が合っても互いに何も言わなかった。名前を知らないまま同じ車に乗り、名前を知らないまま別れる——この仕事ではそれが当たり前で、むしろ名前を覚えてしまうほうが危険だった。覚えた名前は、いつか誰かに訊かれたとき答えてしまうかもしれないから。
車が発進して、コンビニの明かりが遠ざかっていく。幹線道路に出ると街灯が窓の外を等間隔で流れはじめ、車内はエンジンの低い唸りだけになった。
江藤はカーステレオをつけない。音楽が好きじゃないのか、それとも車内の音で外の気配を遮りたくないのか。蓮は後者だと思っていた。江藤も江藤なりに、空気を読んで生きている人間だ。
行き先は聞かされていない。使い捨ての端末に「22時・C地点」とだけ送られてきていて、C地点が湾岸の倉庫街を指すことは先月の仕事で覚えた。その端末も先週入れ替えたばかりのもので、連絡先には江藤の番号と、アイコンもプロフィールもない匿名通信アプリのアカウントしか入っていない。
アプリの画面には過去のメッセージが数十件並んでいるが、どれも「○時・○地点」という同じ形式の六文字から八文字で、感情も文脈もなかった。指示を出しているのが人間なのか自動応答なのか、蓮には判別がつかない。
蓮はジーンズの後ろポケットに手を当てた。布越しに硬い輪郭が伝わってくる。画面がひび割れた古いスマートフォンだ。電源は入らないし、充電しても反応しない。SIMスロットは空で、誰かに連絡するための道具としてはとっくに死んでいる。
いつ手に入れたのか正確には覚えていなかった。路上で拾ったような記憶もあるし、誰かから受け取ったような気もする。どちらにしても蓮の記憶は頼りなく、捨てればいいのに捨てないまま後ろポケットに入れっぱなしになっている。
理由は自分にも分からなかった。ただ、ポケットにこの端末の重みがあると、少しだけ落ち着くのだ。お守りのようなものかもしれない、と蓮は思ったことがある。お守りを持つ柄でもないのに。
「今日の仕事、簡単だから」と江藤がバックミラー越しに蓮を見た。「倉庫に荷物がある。運び出して車に積む。それだけだ。見張りはこいつがやる」
隣の男を顎で示す。男は窓の外を見たまま反応しなかった。
「お前は中の掃除。終わったら連絡しろ」
掃除。蓮に回ってくる仕事はだいたいそう呼ばれる。荷物を運び終わった後の倉庫に入って、残されたものを片付ける。散らばった紙片を拾い、ガムテープの切れ端を回収し、足跡を靴底で均す。何かが落ちていたら——落ちているのが何であっても——黙ってビニール袋に入れる。
蓮にとってはそれが仕事の全部で、得意だというよりは他にできることがなかった。
喧嘩は弱い。身長も体重も足りないし、相手に腕を掴まれたら振りほどけない。銃は見るだけで手が震えるし、ナイフを渡されたときは鞘から出す前に吐き気が込み上げて、先輩たちに笑われた。
あの日、江藤の隣に座っていた先輩——名前は知らない、蓮が「兄貴」と呼ばされていた男——が腹を抱えて笑いながら「こいつ使えねえ」と言ったのを覚えている。十八にもなって殴り合いひとつまともにできない使い走りが、なぜまだこの世界にいられるのかと訊かれれば、答えはひとつしかなかった。
現場の空気を、蓮は読める。
誰が怒っているか、次の一秒で何が起きるか、今この場を離れるべきか留まるべきか——それだけは頭で考えるより先に体が察知した。母親の恋人が酒に酔って帰ってきた夜に身につけた感覚だった。
玄関のドアが閉まる音で、今夜の危険度が分かった。スリッパを脱ぐ音で、殴られるまでの猶予時間が測れた。怒鳴り声が上がる直前の、あの一瞬の静寂を、蓮は一度も聞き逃したことがない。その静寂を聞いた瞬間に部屋を出て、階段の踊り場でうずくまって朝を待つのが蓮の子供時代だった。
だから蓮は掃除屋として生き延びていた。殴られる前に察し、叱られる前に動き、面倒を起こさず、目立たず、必要がなくなれば消える。呼び方は何でもよかった。雑用でも使い走りでも。大事なのは今日も殴られずに朝を迎えることだけで、それ以上のことを望んだこともなかった。
車窓の向こうで、首都高の高架が近づいてきた。湾岸の倉庫街はもうすぐだ。蓮はポケットの中の壊れたスマホに指先を触れた。冷たかった。四月の夜気にしては、妙に冷たかった。