連休の晴れた日に、渡は町に降りた。
神凪町の中心部は小さい。商店街と呼べるのは三百メートルほどの通りで、酒屋、金物屋、食堂、郵便局、理髪店、空き店舗が三軒。歩けば五分で端から端まで行ける。
郵便局でレターパックを買った。中に古物商の名刺のコピーと、短い手紙を入れた。宛先は東京。かつて世話になった古物の鑑定士で、裏の世界にも顔が利く人間だ。名前は六角。渡が前の名前で暮らしていた時代に知り合った。六角は渡の正体を知らない。知らないが、渡が「普通の管理人ではない」ことは察しているだろう。四十年前に一度だけ会って、それ以来、手紙のやり取りだけが続いている。
手紙にはこう書いた。「丹波文化財保存会、および赤松成彦なる人物について、何かご存じでしたらお教えください」。
渡は携帯電話やメールを信用していない。手紙が遅いことは承知しているが、紙の手紙には改竄されにくいという利点がある。千年の間に、偽造された手紙で痛い目に遭ったことが何度かある。紙と墨の質感は、真贋を見分ける手がかりになる。
返事が届くまで一週間はかかるだろう。
商店街を歩きながら、食堂で昼食をとった。山菜そば。五百円。食堂の女将は六十代で、渡のことを「神社の兄さん」と呼ぶ。四十年前から「兄さん」だ。
「兄さん、最近あの神社に変な人来てるって聞いたよ」
「変な人?」
「古い物を見せてくれって、商店街でも何軒か回ったらしいよ。うちにも来たけど、見せるようなもんないから追い返した」
渡はそばを啜りながら聞いた。古物商は神社だけでなく、町全体を回っている。商店街の店にも声をかけている。表向きは「地域の文化財の保全」。だが本当の目的は別にある。
「どんな人でした?」
「スーツ着た中年の男。眼鏡かけてた。丁寧な喋り方だったけど、目が笑ってなかったね」
目が笑っていない。女将の観察は渡の見立てと一致する。名刺を残す人間は体裁を整えるが、目は隠せない。
神社に戻ると、千早が蔵の前にいた。
渡の歩みが止まった。千早は蔵の扉の前にしゃがんで、蝶番を見ていた。
「千早さん。何を」
「深山さん。この蝶番、新しいですよね」
交換したばかりの蝶番。金属の光沢がまだ残っている。古い蔵に新しい蝶番。千早はその違和感を見逃さなかった。
「傷んでいたので交換しました」
「傷んでた? 先週見たときは普通でしたけど」
「内部の軸が摩耗していました。開閉に支障が出る前に」
千早が立ち上がった。渡の顔を見た。
「深山さん。何かありましたか」
「何かとは」
「蝶番を急に交換するのは、何かあったからじゃないですか」
渡は千早の目を見た。黒い瞳。疑いの目ではない。心配の目でもない。確かめようとしている目だ。事実を知りたいだけの、まっすぐな視線。
嘘をつくべきだった。嘘をつけば千早は引き下がる。嘘をつけば千早を巻き込まずに済む。
「深夜に侵入者がありました」
渡は自分の口から出た言葉に驚いた。言うつもりはなかった。だが千早の目を見ていたら、嘘が喉を通らなかった。千年も嘘をついてきた人間の喉が、この十八歳の前で詰まった。
「侵入者」
「蔵の中を物色していましたが、何も盗まれていません。蝶番を外して侵入したので、交換しました」
「警察には」
「届けていません。盗難がないので」
「でも不法侵入ですよね」
「はい」
千早が黙った。数秒。それから言った。
「おじいちゃんは知ってるんですか」
「伝えました」
「私には伝えなかった」
「心配をかけたくなかったので」
「つまり、守ろうとしたんですか。私を。情報を隠すことで」
渡は答えられなかった。千早の言葉は正確だった。守ろうとした。情報を隠すことで。渡がいつもやることだ。千年間やってきたことだ。
千早は怒っていなかった。声を荒げず、ただ事実を並べた。
「深山さん。私はこの家の人間です。蔵にあるものは、宮守家のものです。侵入者があったなら、私にも知る権利があります」
「……おっしゃる通りです」
「次からは教えてください。隠さないで」
千早はそれだけ言って、社務所に向かって歩いていった。背中が真っ直ぐだった。怒りではなく、意志の直線。
渡は蔵の前に一人残された。
言ってしまった。侵入者のことを。隠すつもりだったのに。千早の前で嘘がつけなかった。
渡は蔵の壁に背中をもたせかけた。白壁の漆喰が背中に冷たい。五月の午後の日差しが境内を照らしているが、渡の背中だけが冷えていた。
隠すことで守る。それが渡のやり方だった。千年の間に身についたやり方。
だが千早は「隠さないで」と言った。
渡は壁から背中を離した。蔵の結界の核に手を触れた。温度。正常。
正常だが、渡の中の何かが、少しだけ変わった気がした。