小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第8話「蔵荒らし」

2,191文字 約5分

午前二時に結界が鳴った。

 鳴った、というのは渡にしか通じない表現だ。結界が物理的な音を発するわけではない。柱の中に仕込んだ核が振動し、その振動が渡の体の奥にある感覚器に届く。目が覚めるほどの強さではない。だが渡は千年の間に、この振動で目が覚める体を作ってしまっている。

 布団から出た。窓を開けず、管理棟の階段を裸足で降りた。土間で地下足袋を履いた。千年前から使い慣れた履物は地下足袋ではなく草鞋だったが、この時代に草鞋を履いていたら不審者として通報される。

 外に出た。五月の夜。空気が湿っている。月は雲の向こうにあり、境内は暗い。渡には暗闇は障害にならない。足の裏から地面の温度と湿度を読み、空気の流れで障害物の位置を把握できる。千年の夜を歩いてきた体だ。

 蔵に近づいた。

 結界が振動している。核が熱い。外気より二度低いはずの温度が、体温に近いところまで上がっている。何かが結界に触れている。触れて、入ろうとしている。

 蔵の白壁が暗闇に浮かんでいた。漆喰の扉は閉まっている。南京錠は無事。

 だが扉の下の隙間から、光が漏れていた。懐中電灯の光。

 中に人がいる。

 渡は扉に手を触れなかった。代わりに、壁の裏に回った。蔵の北壁には小さな換気窓がある。格子がはまっているが、格子の隙間から中を覗くことができる。

 覗いた。

 懐中電灯を持った人間が一人、蔵の中にいた。黒い服。帽子。顔は見えない。手袋をしている。棚の前にしゃがんで、経巻の入った木箱を開けている。

 開けているが、取り出してはいない。見ている。懐中電灯で照らして、中身を確認している。

 棚を移動した。二段目。三段目。次々に開けて、中を照らし、閉じる。探しているものがある。だが何を探しているのか、まだ見つかっていない。

 侵入者が蔵の奥に向かった。封印された棚のある場所。

 封印の札の前で立ち止まった。懐中電灯で札を照らした。十秒ほど見つめていた。

 それから手を伸ばした。

 札に触れようとした。

 結界が弾いた。

 渡の目には見えた。侵入者の指先が札に触れる直前に、空気が歪んだ。透明な壁のようなものが侵入者の手を押し返した。侵入者は二歩後退し、体勢を崩してよろめいた。

 渡は蔵の正面に回った。

 扉を開けた。南京錠は外されていなかった。扉の蝶番の方から侵入している。蝶番の軸を抜いて、扉を外す手口だ。時間はかかるが、錠を壊すより痕跡が残りにくい。知識のある人間の仕事だ。

 蔵の中に足を踏み入れた。

 侵入者は渡を見た。懐中電灯の光が渡の顔に当たった。二秒。それから侵入者は懐中電灯を消し、蔵の奥に走った。北壁の換気窓に向かっている。

 換気窓の格子は内側から外せる。侵入者はそれを知っていた。格子を外し、窓枠に足をかけて外に飛び出した。小柄な体だ。窓は幅四十センチほどしかないが、痩せた人間なら通れる。

 渡は追わなかった。

 追えば捕まえられる。この暗闇の中でも、渡の足は相手より速い。だが捕まえてどうする。警察を呼ぶか。警察を呼べば、なぜ管理人が真夜中に蔵の異変に気づいたのかを説明しなければならない。結界の振動で起きた、とは言えない。

 渡は蔵の中を見回した。

 荒らされている。木箱が三つ開いている。経巻は散らばっていない。見ただけで戻している。丁寧な荒らし方だ。盗むのが目的ではない。探しているものがある。

 封印された棚の前に立った。札に触れた。温度。外気より二度低い。正常値に戻っている。結界は保たれた。侵入者は弾かれた。

 蝶番を元に戻し、扉を閉めた。蝶番の軸は予備を管理棟に置いてある。明日交換する。

 管理棟に戻った。手を洗い、顔を洗った。

 侵入者の痕跡を整理した。

 手袋をしていた。指紋は残していない。靴はスニーカー。EP004の革靴とは異なる。別の人間。だが蔵の構造を知っていた。蝶番の方から侵入し、換気窓から脱出した。これは蔵の図面を見たことがある人間の行動だ。

 図面は宮守家にある。社務所の書類棚。だが古い蔵の図面がそこにあることを知る人間は限られている。

 古物商を名乗った赤松成彦。あの男が宮司から聞いた「由緒」の中に、蔵の構造に関する情報が含まれていた可能性がある。宮司は断りきれずに話したと言っていた。どこまで話したか。

 渡は布団に入ったが、眠れなかった。天井を見つめていた。

 朝になって宮守老人に報告した。蔵に侵入者があったこと。中身は盗まれていないこと。蝶番を交換すること。

 宮司の顔が曇った。

「最近こういうことが多い」

「多い?」

「去年の秋にも、裏山で不審な人間を見かけた。一昨年は常光寺の庫裡に泥棒が入った。この町に泥棒なんて、わしが子どもの頃にはなかった」

 渡は何も言わなかった。宮司の言う通りだ。この町は静かだった。封印が安定し、結界が保たれている間は、町全体が穏やかな均衡の中にあった。

 均衡が崩れ始めている。外から探りを入れる人間がいる。祠の札を剥がし、社殿の裏を歩き、蔵に侵入する。

 探しているものは何だ。蔵の中身か。封印された棚の中か。それとも。

 渡は蔵の蝶番を新しいものに交換し、結界の核を調整した。手を動かしながら考えた。

 千早のことを思った。千早はまだ知らない。蔵荒らしがあったことも、封印の札が結界で守られていることも。知らせるべきか。知らせれば心配する。心配させれば、巻き込む。

 渡は蝶番のネジを最後まで締めた。工具を布で拭いた。

 知らせない。まだ。

 持ちこたえさせる。もう少しだけ。