小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第7話「雨の墨跡」

2,208文字 約5分

四月の終わりに、三日続きの雨が降った。

 山の雨は重い。東京の雨とは質が違う。東京の雨はアスファルトに当たって跳ねるが、ここの雨は土に吸われて音もなく消えていく。屋根を打つ音だけが、社務所の中に低く響いている。

 千早は社務所の板の間に座って、古い帳簿の束を前にしていた。祖父が「暇なら整理でもしておけ」と言い残して本殿に行ってしまったのが一時間前で、帳簿の山は減っていなかった。

 帳簿は明治から昭和にかけてのもので、祈祷の依頼記録、奉納品の受け入れ台帳、修繕の費用明細などが雑多に綴じられている。紙が茶色くなっていて、開くたびに乾いた匂いがした。虫が食っている箇所もある。

 整理の手が止まったのは、文字のせいだった。

 明治三十七年の修繕記録。社殿の屋根の葺き替えに関する費用の明細が書かれている。筆書き。墨。達筆ではないが丁寧な字で、読みやすい。

 その字に見覚えがあった。

 千早は帳簿を置き、蔵で見た封印の札の文字を思い出した。あの札は古い書体で書かれていて、意味は分からなかったが、筆跡の癖は記憶に残っている。縦棒の最後で力を抜く癖。横棒の入りが少し右上がりになる癖。

 この修繕記録の字と、同じだ。

 明治三十七年。百二十年以上前。蔵の封印の札がいつ書かれたかは分からないが、少なくとも二十年以上は経過しているように見えた。百二十年前の帳簿と、二十年以上前の札と、同じ筆跡。

 つまり、同じ人間が書いた。

 引き戸が開いた。雨の匂いと一緒に、深山渡が入ってきた。黒い雨合羽を脱いで、土間のフックに掛けている。髪が少し濡れている。

「蔵の点検をしてきました。雨漏りはありません」

「深山さん。ちょっと見てほしいものがあるんですけど」

 渡が板の間に上がった。千早は帳簿を渡の前に置いた。修繕記録のページを開いて見せた。

「この字、見覚えありませんか」

 渡が帳簿を覗き込んだ。表情は変わらなかった。変わらなかったこと自体が、千早にとっては情報だった。見たことのない字なら、少しは反応するはずだ。反応しないのは、見覚えがあるからだ。

「明治三十七年の修繕記録ですね。屋根の葺き替え」

「字のことです。この筆跡」

「何か気になりましたか」

「蔵の奥の棚に貼ってある札と、同じ字です」

 渡が帳簿から顔を上げた。千早を見た。穏やかな目だが、奥で何かが動いている。計算しているのだろう。何を話し、何を話さないか。

「前任の管理人の字だと思います」

「前任」

「ええ。私の前にこの神社の管理をしていた方の」

「明治三十七年の記録を書いた人が、蔵の封印の札も書いた。つまり、同じ管理人が百年以上この神社にいたということですか」

「管理人の家系かもしれませんし、筆跡が似ている別人かもしれません」

「家系で筆跡が一致しますか? 縦棒の力の抜き方まで」

 渡は答えなかった。

 雨の音が社務所を包んでいた。屋根を打つ水滴の音が、均一に、途切れなく続いている。千早はその音の中で、渡の沈黙を測った。三秒。五秒。七秒。

 七秒の沈黙は、考えている沈黙ではなく、答えを選んでいる沈黙だった。知っているが言えないことがある人間の間の取り方。

「千早さん」

「はい」

「この帳簿は、宮守家の記録です。管理人の私が立ち入る範囲ではないことも含まれています。筆跡の件は、宮司さんに聞いてみてください」

 話をそらされた。千早にはそれが分かった。渡は答えを持っている。持っていて、出さない。

「おじいちゃんに聞いても、たぶん答えませんよ」

「なぜそう思うんですか」

「おじいちゃんは知らないと思うから。知っているのは深山さんだけ」

 渡の目がわずかに揺れた。揺れたのは一瞬で、すぐに穏やかな表情に戻った。

「私はただの管理人ですよ」

「管理人にしては、この家のことを知りすぎています」

 千早は帳簿を閉じた。追及はここまでにする。渡を追い詰めても口を開かないことは分かっている。この人は黙ることに慣れている。千年とは言わないが、少なくとも何十年も黙ってきた人間の沈黙には厚みがある。

「お茶、淹れましょうか」

 渡が言った。話題を変えるための茶だと分かっていたが、千早は頷いた。

「お願いします」

 渡が台所に立った。急須を出し、茶葉を入れ、湯を注いだ。その所作を千早は見ていた。急須の取っ手を持つ指。漆の補修部分に親指がちょうど当たる位置。この急須を毎日使っている人間の持ち方だ。

 渡が茶を持ってきた。湯呑みを二つ。千早の分と、自分の分。

「深山さん」

「はい」

「もう一つだけ聞いていいですか」

「どうぞ」

「この急須の漆、直したの、深山さんですよね」

 渡が茶を飲もうとしていた手を止めた。止めたことに気づいて、何事もなかったように口に運んだ。

「……まあ。漆の扱いは少し心得ていますので」

「少し、じゃないと思いますけど」

 千早は茶を飲んだ。温かかった。祖父の好みよりも少し薄い。渡の好みの濃さなのだろう。

 雨は降り続いていた。社務所の屋根を打つ音。板の間に座る二人の間にある空気は、敵対的ではなかったが、透明でもなかった。何かが間にある。渡が隠していること。千早が掴みかけていること。

 帳簿の束はまだ半分残っていた。千早はもう一冊を手に取った。大正期の祈祷記録。開いた。

 同じ筆跡があるかもしれない。あったらどうする。百二十年前と同じ字を、大正の帳簿にも見つけたら。

 千早は頁をめくった。雨の音の中で、古い紙が擦れる音がした。

 渡は台所で湯呑みを洗っていた。水音が聞こえる。静かな午後だった。