小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第6話「祠の札」

2,056文字 約5分

再開発予定地は町の南端にあり、神凪神社からは歩いて二十分ほどの距離になる。

 空き地が広がっている。かつては農家が三軒と畑があった場所で、今は更地にコンクリートの基礎だけが残っている。町が再開発の計画を出したのは五年前だが、予算がつかず、計画は宙に浮いたまま放置されている。空き地の真ん中に、祠が一つ残っていた。

 渡はこの祠を月に一度見回っている。石造りの小さな祠で、高さは五十センチほど。苔に覆われていて、注連縄は朽ちかけている。中には石の御神体が一つ。御神体そのものには大きな力はないが、祠の周囲に張られた結界が、この区画の地脈の流れを整えている。

 祠に近づいたとき、渡の足が止まった。

 札が一枚、地面に落ちていた。

 祠の左柱に貼ってあった封印の札だ。白い和紙に墨書きの文字。渡が自分で書いた札で、前回の貼り替えは二十三年前になる。糊は楮紙を煮て作った特殊な接着剤で、百年は保つ。風で剥がれることはない。雨でも溶けない。

 渡は札を拾い上げた。糊の面を見た。

 断面が鋭い。刃物で切られている。カッターか小刀。意図的に剥がされた。

 祠の柱を確認した。札が貼ってあった場所に、糊の痕跡が残っている。他の三枚の札は無事だ。左柱の一枚だけが切り取られている。

 四枚の札で四方を守る構造になっている。一枚が欠ければ結界に穴が開く。穴は小さい。この程度なら一般人には影響がない。だが、渡には分かる。祠の周囲の空気が、微かに冷えている。結界の内側と外側の温度差が縮まっている。

 渡は懐から和紙と筆を取り出した。常に持ち歩いている。墨は固形のものを水で溶くのが本来だが、今は筆ペンを使っている。千年前の自分が見たら眉をひそめるだろうが、利便性には勝てなかった。

 札を書いた。文字は古い書体で、現代の日本語ではない。修験道の術式に基づいた封の句で、意味を知る人間は今の日本に十人もいないだろう。渡自身は意味を知っているが、この句を教えてくれた人間の名前はもう覚えていない。千年の記憶は、肝心なところが抜け落ちる。句は覚えている。教えた顔は忘れた。

 糊を塗り、札を柱に貼った。指先で圧着する。楮紙の糊は乾くまで三十分かかる。渡は祠の前にしゃがんで待った。

 待っている間、空き地を見回した。更地。コンクリートの基礎。雑草。フェンス。再開発の看板が色褪せて立っている。「神凪町南部再開発計画 令和三年度着工予定」。着工はされていない。

 この祠の札を誰が剥がしたのか。

 空き地に人が入った痕跡はある。雑草が踏まれている場所がいくつか。だが、それだけでは判断できない。近所の子どもが遊びに入ることもある。

 だが子どもが封印の札をカッターで切ることはしない。切る意味を知らなければ、切ろうとは思わない。

 EP004で見つけた境内の足跡。古物商を名乗る男。社殿の裏を一周して、結界の境界面で足跡が消えた。

 あの男が、ここにも来たのか。

 渡は立ち上がった。糊が乾いた。札を軽く押して、接着を確認した。結界が閉じる感覚が指先から伝わってきた。温度差が戻る。外気より二度低い。正常値。

 管理棟に戻ったのは夕方だった。日が傾いて、社殿の影が石段に長く伸びている。

 夕食を作った。飯と味噌汁と焼き魚。一人分。魚は朝のうちに商店街の魚屋で買っておいた鮎の干物で、焼くと脂が跳ねて煙が出た。換気扇を回した。この管理棟に換気扇がついたのは昭和五十年代で、それ以前は窓を開けて煙を逃がしていた。窓を開けると冬は寒く、夏は虫が入った。換気扇は文明の恩恵だと、渡は本気で思っている。

 食器を洗い、布団を敷き、横になった。目を閉じた。

 午前一時。

 渡は目を開けた。

 何かが変わった。空気の質が変わった。管理棟の室内の温度は変わっていない。窓は閉まっている。だが、体の奥にある感覚器が、何かを拾っている。

 結界の振動。神凪神社の結界ではない。もっと遠い。南の方角。

 祠だ。

 渡は布団から出た。着替えずに、作務衣のまま外に出た。四月の夜。空気が冷たい。星が見えている。

 南の方角に意識を向けた。目を閉じて、結界のネットワークを辿る。神凪神社の主結界から、旧参道の副核を経由して、南端の祠へ。

 祠の結界は保たれている。今日貼り直した札は剥がれていない。だが結界の外側に、何かが触れている。触れている、というのは比喩ではない。結界の膜に物理的な圧がかかっている。中に入ろうとしているのではなく、外から撫でるように探っている。

 渡は目を開けた。

 行くべきか。夜中に祠まで往復すれば四十分かかる。行って何があるか分からない。行かなくても、結界が保っているなら問題はない。

 渡は行かなかった。

 布団に戻った。目を閉じた。南の方角に意識の一部を残したまま、眠りに落ちた。

 朝になって目が覚めたとき、祠の気配は消えていた。

 結界は保たれていた。正常。札も無事だった。

 だが渡は知っている。昨夜、何かがあの祠に触れた。触れて、探って、去った。

 探っている。誰かが、あるいは何かが、この町の封印を外側から探っている。

 渡は石段の掃除を始めた。箒の音が、朝の境内に響いた。