小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第5話「苔の道」

3,193文字 約7分

昼過ぎに千早が管理棟を訪ねてきた。

「深山さん。旧参道って、歩けますか」

 渡は古文書の修復をしていた手を止めた。楮紙の裏打ちに糊を塗りかけた状態で、刷毛が空中に浮いている。

「歩けますが、荒れています。通行止めの柵がある場所もあります」

「途中まででいいんです。子どものとき、おじいちゃんに連れていってもらったことがあって。石段がきれいだったのを覚えてる」

 渡は刷毛を糊の皿に置いた。手を布で拭い、修復中の経巻に保護紙を被せた。

「……まあ、ご一緒しましょう」

 旧参道は神凪神社の本殿の西側から始まる。かつて山頂の奥社へ至る正式な参拝路だったが、昭和の終わりに山道が崩れて通行止めになり、そのまま放置されている。新しい参道は東側に付け替えられ、旧参道は忘れられた道になった。

 渡にとっては忘れられていない道だ。

 入口の石段から、千早と並んで歩き始めた。石段は苔に覆われていて、滑りやすい。千早がスニーカーの底で慎重に踏みしめている。

「滑りますね」

「この苔は雨の翌日が一番滑ります。今日は乾いている方です」

「そうなんだ。詳しいですね」

「管理の範囲なので」

 石段を二十段ほど上がると、最初の石灯籠が現れた。片側が崩れている。笠の部分が落ちて、地面に半分埋まっている。

「これ、いつ崩れたんですか」

「大正末期の豪雨で」

 言ってから、渡は自分の口を呪った。大正末期。管理人が四十年前にこの町に来たのなら、大正末期の出来事を知っているのは不自然だ。記録で知った、と付け加えるべきだった。

「記録に残っています」

「へえ。細かいことまで記録してあるんですね」

 千早は深追いしなかった。だが渡は、千早がその返答を記憶に留めたことを感じ取った。この子は引っかかったことを忘れない。今は追及しないだけだ。

 旧参道は杉の並木に沿って緩やかに上っていく。左右の杉は太く、どれも幹の直径が一メートルを超えている。植えられたのは江戸初期で、当時は細い苗だった。渡はそれを覚えている。常光寺の建立と同じ頃、寺の開基に合わせて参道の整備が行われた。渡が苗を担いで山を上がったのは、前の前の前の名前のときだ。

 二百メートルほど歩くと、使われなくなった手水舎が現れた。石の水盤に苔が生えている。水は枯れている。蛇口が錆びついて動かない。

 千早が手水舎の石積みを見ていた。

「深山さん。この石、新しくないですか」

「どの石ですか」

「ここ。水盤を支えてる台座の、左の柱石。周りの石と色が違う」

 渡はその石を見た。確かに色が違う。周囲の石は灰色に苔が生えているが、その一つだけは少し赤みがかった花崗岩で、表面の風化が浅い。

 渡が入れ替えた石だ。前の石は七十年前の冬に凍結して割れた。渡が花崗岩を山から切り出して、自分で据え直した。七十年前なら、地質学的には「新しい」に当たる。千早の目は正しい。

「修繕の跡ですね。入れ替えたんでしょう」

「誰が?」

「前任の管理人か、あるいは地元の石工さんか」

「でもこの石、手切りですよね。機械で切った跡がない。今どきの石工さんなら電動カッターを使うんじゃ」

 千早がしゃがんで石の断面を覗き込んでいた。手切り。渡が鑿と金槌で切った石だ。七十年前に電動カッターが手に入らなかったわけではない。渡が使い慣れた道具で切っただけだ。使い慣れた道具は、千年前から変わらない。

「古い修繕ですからね。当時は手切りが一般的だったのかもしれません」

「当時って、いつですか」

「さあ。記録がない修繕もあります」

 千早は立ち上がった。砂を払った。何か言いたそうにしていたが、口にしなかった。

 旧参道をさらに進んだ。石段は次第に傾斜を増し、踏み面が狭くなっていく。両側の杉が太くなり、日差しが遮られて空気が冷たくなった。

「深山さん。この道、手入れされてますよね」

「はい」

「でも通行止めなんでしょう。通行止めの道を、誰が手入れしてるんですか」

「管理人の仕事です」

「通行止めの道を管理する理由は?」

「石段が崩れると、上から土砂が流れてきます。境内に被害が出る可能性があるので、排水と石段の維持は必要です」

 嘘ではない。実際にそういう側面もある。だが本当の理由は別にある。この参道の途中に、結界の副核がある。参道の石段の中に埋め込んだ核で、蔵の封印と連動している。石段が崩れれば結界も崩れる。だから手入れしている。

 千早は渡の答えに頷いた。頷いたが、目は渡の横顔を観察していた。

 通行止めの柵に達した。鉄パイプの柵が道を塞いでいる。その先は石段が崩れかけていて、歩くのは危険だ。

「ここまでですね」

「ですね」

 千早が柵の向こうを覗き込んだ。石段の先は暗い。杉の木立が密になり、日光がほとんど届かない。

「この先は何があるんですか」

「奥社の跡です。今は何も残っていません」

 嘘だ。奥社の跡の先に、西の禁足地がある。結界の核心。渡が千年守ってきた場所。

「何もない?」

「建物は残っていません。礎石だけです」

 千早が柵に手をかけた。触れただけで越えようとはしていない。だがその手の下で、渡は感じた。結界の副核が微かに反応している。千早の手が柵に触れたことで、石段の中の核が震えた。

 震えた、というのは比喩ではない。物理的に微細な振動があった。渡の足の裏に伝わる程度の。

 千早は気づいていない。渡だけが感じた。

 柵から手を離した千早が振り返った。

「帰りましょうか」

「ええ」

 下りの石段を歩き始めた。千早が先に行き、渡が後ろから続いた。

 手水舎を過ぎ、崩れた石灯籠を過ぎ、杉の並木を抜ける。

 渡の耳に、微かな音が届いた。

 読経。

 低い、一定の律動の声。漢文の経典を読む声。般若心経ではない。もっと古い。渡はこの読経を知っている。常光寺の建立以前から、この山にあった修験の行場で唱えられていた経だ。今は唱える者がいない。いないはずだ。

 渡は立ち止まった。耳を澄ませた。

 読経は旧参道の奥から聞こえていた。通行止めの柵の向こうから。奥社の跡の方角から。

 三秒。五秒。音が消えた。風の音に紛れて、判別できなくなった。

「深山さん?」

 千早が振り返っていた。

「……すみません。何でもありません」

「何か聞こえました?」

「風の音です」

 千早は渡の顔を見た。渡は微笑んだ。風の音だ、と表情で繰り返した。

 千早は頷いて、歩き出した。

 渡は後ろを振り返った。旧参道の奥。杉の木立の向こう。通行止めの柵の先に、暗い石段が消えていく。

 読経は聞こえなくなっていた。

 渡には聞こえた。千早には聞こえなかった。それは渡の耳が敏感だからか、それとも、渡にだけ聞かせるために鳴った音だったのか。

 境内に戻ると、四月の午後の光がまぶしかった。社殿の銅板の屋根が光を弾いている。千早がスニーカーの泥を石段の角で落としている。

「今日はありがとうございました。面白かった」

「面白かったですか」

「石段の修復痕とか、手切りの石とか。この参道、誰かがずっと大事にしてきたんだなって思って」

 渡は何も言わなかった。言えば嘘になる。嘘をつかずに真実を話すこともできない。だから黙った。

 千早が社務所に向かって歩いていった。渡は管理棟に戻った。

 管理棟の二階。居室。布団と本棚と小さな台所。窓から境内が見える。千早の姿は社務所の中に消えていた。

 渡は窓辺に立って、旧参道の方角を見た。杉の並木の向こうは暗い。

 読経の声。千年前に消えたはずの経。

 封印が揺らいでいるのか。外から探りを入れている人間の影響か。千早の中にある何かが、眠っていたものを揺さぶっているのか。

 渡は窓を閉めた。

 明日の朝、旧参道の奥を一人で確認する。結界の副核の状態を。奥社の跡を。禁足地の境界を。

 千年間、同じことを繰り返してきた。異変を感じたら確認する。確認して、補修して、持ちこたえさせる。完全には直らない。でも、もう少しだけ。

 ただ今回は、異変の中心にいるのが蔵や結界ではなく、一人の十八歳の女の子だという点が、これまでとは違っていた。