小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第4話「裏手の跡」

2,212文字 約5分

石段の掃除を終え、境内の奥に回ったところで足跡に気づいた。

 社殿の裏手。普段は参拝者が入らない場所で、地面は土と苔に覆われている。渡が毎朝巡回するときに見る風景は、季節ごとの変化を除けば四十年間ほとんど変わらない。苔の生え際、排水溝の角度、杉の根が持ち上げた地面の膨らみ。体が覚えている地図と、目の前の地面が、わずかに違っていた。

 足跡があった。

 革靴だ。底の模様から判断して、ビジネスシューズ。サイズは二十六センチ前後。歩幅は約七十センチで、体重は六十キロ台後半。足跡の深さと土の柔らかさから逆算できる。

 社殿の裏を、一周している。北側の壁面に沿って歩き、西に回り、南面の縁の下を覗き込むように一箇所で立ち止まり、そこから東に抜けて、消えている。

 消え方が不自然だった。

 足跡は社殿の東側で途切れている。途切れた場所は、渡が結界の核を埋めている区画の真上だ。結界の境界面と一致している。結界が足跡を消したのか、それとも結界に触れた人間が引き返したのか。

 渡はしゃがんで土の表面に指を近づけた。触れずに、掌で温度を測る。足跡の中の土は外気と同温度。つまり数日以上前に踏まれている。昨日の雨で表面が洗われているが、足跡の輪郭は残っている。三日前か四日前。渡が蔵の虫干しに集中していた頃だ。

 夜だろう。日中にビジネスシューズの人間が社殿の裏を一周していれば、宮司か渡が気づく。深夜か早朝の、人がいない時間帯。

 渡は足跡を辿りながら、相手の行動を再構成した。社殿の北壁に沿って歩いている。壁面を観察していたのだろうか。西側に回り、南の縁の下で立ち止まった。ここには何もない。渡は知っている。縁の下には古い柱の礎石があり、建物を支えている。ただの構造材だ。

 だが、文化財としてこの社殿を調査するなら、礎石の年代は確認すべき場所ではある。

 渡は立ち上がった。

 社務所に向かった。宮守老人が朝の祈祷を終えて、縁側で茶を飲んでいた。

「宮司さん。少し聞いてもいいですか」

「何だ」

「最近、境内を訪ねてきた人はいましたか。参拝者以外で」

 宮司がゆっくりと茶を置いた。指先が湯呑みの縁をなぞった。考え込む癖だ。

「四日ほど前か。古物商を名乗る男が来た」

「古物商」

「名刺を置いていった。地域の文化財の保全に興味があると言っていた。蔵の中身について聞いてきた」

「蔵を見せましたか」

「見せるわけがない。門前払いだ。だが、神社の由緒については少し話をした。断りきれんかった」

 断りきれなかった。宮守老人は頑固な人間だが、神社の由緒を聞かれれば答えてしまう。誇りがあるからだ。この神社が奈良時代に遡る古い社であること、宮守家が代々守ってきたこと。それを語ることは、宮司にとって当然の務めだ。

「名刺はありますか」

「引き出しの中だ。持っていけ」

 社務所の事務机を開けた。名刺が一枚。

 「丹波文化財保存会 理事 赤松成彦」。住所は東京都千代田区。電話番号。メールアドレス。紙は上質で、文字のフォントに品がある。

 渡は名刺を裏返した。裏面は白紙。

 名刺を懐に入れた。後で調べる。法人名が実在するか、住所が本物か、電話番号が繋がるか。

 境内に戻り、足跡の場所をもう一度確認した。ビジネスシューズの男。古物商を名乗る人間。蔵の中身に興味がある。社殿の裏を一周して、結界の境界面で足跡が消えている。

 偶然だろうか。結界の位置を知っている人間は、この世界にそう多くない。渡自身と、蓮華院ネットワークの一部の人間と、もう何人か。だが「丹波文化財保存会」はその界隈の名前ではない。

 渡は管理棟に戻り、古い携帯電話を取り出した。スマートフォンではない。折り畳み式のガラケーだ。千早に見られたら笑われるだろう。だが渡にとってはこれで十分だ。メールも写真も必要ない。電話ができれば用は足りる。

 番号をダイヤルした。名刺に書かれた電話番号。

 呼び出し音が三回鳴り、留守番電話に切り替わった。

「丹波文化財保存会です。ただいま不在にしております。メッセージを——」

 録音音声。自動応答。人間の声ではなく、合成音声だ。

 渡は無言で電話を切った。

 合成音声の留守番電話。組織の代表番号なら、少なくとも受付の人間がいるべきだ。この時間帯に誰も出ないのは、実態がないか、あっても極めて小さい組織だということだ。

 名刺を机の上に置いた。赤松成彦。この名前が本名かどうかも分からない。

 渡は蔵の方角を見た。管理棟の窓から、白壁の土蔵が見える。四十年間、渡が管理してきた蔵。封印された棚。百年持つ糊で貼られた札。

 外から探りを入れてくる人間がいる。

 千早が帰ってきたタイミングと重なるのは偶然かもしれない。だが渡は偶然を信じない体質になっていた。千年も生きると、偶然と必然の区別が曖昧になる。たいていの偶然は、十年後に振り返れば必然だった。

 千早の中にある微かな異変。蔵の封印が千早の前で温度を上げたこと。そして、外部から来た古物商。

 渡は窓を閉めた。

 夕方、千早が境内を散歩しているのを見かけた。一人で、社殿の周りを歩いている。渡が朝に足跡を見つけた場所とほぼ同じルートを、知らずに辿っていた。

 渡は管理棟の窓からそれを見ていた。声をかけるべきかどうか迷った。迷って、かけなかった。

 千早が東側に回ったとき、ふと足を止めた。結界の境界面の真上で。

 立ち止まって、地面を見下ろした。何かを感じたのだろうか。数秒。それから首を傾げて、歩き去った。

 渡は窓辺で、長いあいだ動かなかった。