朝九時に千早が来た。作業着に着替えていた。ジーンズにTシャツ、髪をバンダナで包んでいる。軍手を持参していた。
渡は蔵の南京錠を外しながら、その準備の周到さに少し感心した。蔵の作業に手袋が要ることを知っている。古い紙は素手の脂で劣化する。宮司の祖父から教わったのだろうか、それとも大学で習ったのか。
「入りますよ」
漆喰の扉を開けた。蔵の匂いが外に溢れた。紙と墨と白檀。千早が鼻をひくつかせた。
「いい匂い」
「香を焚いているので」
「防虫用?」
「ええ。白檀と樟脳を配合しています。紙の繊維に浸透させると、虫が寄りにくくなる」
「それ、いつから?」
「ずっと前から」
ずっと前。渡はこの言い回しをよく使う。「ずっと前から」「昔から」「以前から」。具体的な年代を避けるための、千年分の回避語彙だった。
蔵の中は薄暗い。渡が入口近くの棚から経巻を取り出し、千早に渡した。千早は軍手をはめた手で受け取り、布の上に横たえた。巻子の扱いに迷いがない。両端を均等に持ち、ねじらず、真っ直ぐ置く。正しい所作だ。
「上手いですね」
「おじいちゃんに仕込まれたので。小学生のときに。『お前はこの家の人間なんだから、これくらいできなきゃ困る』って」
「宮司さんらしい」
「嫌でしたけどね。友達はみんな外で遊んでるのに、私だけ蔵で巻物の扱い方を練習させられて」
千早が苦笑した。嫌だったのは本当だろう。だが体が覚えている。嫌々でも繰り返した所作は、十年経っても手に残る。渡はそのことをよく知っていた。千年分の所作が、渡の手にも残っている。
棚の中段から、江戸中期の奉納帳を取り出した。千早がそれを受け取り、表紙を見た。
「これ、享保のもの?」
「享保八年から文政二年までの奉納記録です。宮守家の七代目から十一代目の時代」
「七代目って何年前ですか」
「三百年ほど」
「三百年分の奉納を一冊に。すごいな」
千早が帳面を開いた。墨の列。名前と日付と奉納品。渡はその帳面の来歴を全て知っている。七代目の宮守源兵衛が始めた記録で、綴じ糸は絹。享保十二年に一度ほどけて、渡が綴じ直した。その頃の渡は別の名前を使っていた。寺男の立場で、神社にも顔を出していた。
その記憶を、渡は口にしなかった。
千早が帳面のページを丁寧にめくっていく。渡はその手元を見ながら、棚の奥に手を伸ばして次の巻子を取り出した。
一時間ほどかけて、蔵の前半分の棚を空にした。経巻と古文書を布の上に広げ、蔵の扉を開けて風を通す。四月の乾いた風が紙の表面を撫でていく。
「深山さん」
「はい」
「この蔵の奥にある棚、あれは出さないんですか」
千早が蔵の最奥部を指さした。封印の札が貼られた棚。白い和紙に墨書きの文字。注連縄が細く巻かれている。
「あの棚は出しません」
「なぜ?」
「宮司さんの指示です。あの棚の中身は虫干しの対象外です」
「触っちゃいけないもの?」
「差し支えなければ、近づかないでいただきたい」
差し支えなければ。また古い言い回しが出た。渡は自分の口から漏れる言葉を追いかけるように、付け加えた。
「すみません。あの棚は繊細な品が入っていまして、温度や湿度の管理が特殊なんです」
千早は納得した顔をしなかった。だが従った。封印の棚から離れて、入口近くの布の上に戻った。
だが去り際に、千早の目が札の文字を捉えていた。渡にはそれが分かった。千早は振り返らなかったが、目の端で札を見ていた。
三十分後。虫干しの作業が一段落して、千早が蔵の入口の敷居に腰を下ろした。渡が水筒から白湯を注いで渡した。
「深山さん。あの札の字」
「はい」
「見覚えがある気がするんです」
渡の指先が、水筒の蓋の上で止まった。
「昨日、社務所で見た古い帳簿にも似た字がありました。筆の入りが同じ。特に、縦棒の終わりに力を抜く癖が」
千早はそこまで見ていたのか。筆跡の癖。縦棒の終わりの力の抜き方。渡自身の墨書きの癖だ。何百年書いても直らない癖。直す理由もなかった。誰も気づかないと思っていた。
「前任の管理人の字だと思います」
「前任」
「ええ。私の前に、この蔵を管理していた方の」
「その前任って、いつの方ですか」
「かなり前です」
かなり前。ずっと前。昔から。渡の回避語彙が尽きかけている。千早は頷いたが、目が笑っていなかった。納得していない目だ。飲み込んでいるだけで、消化していない。
蔵の奥で、封印の札が微かに温もった。渡は背中越しにそれを感じた。外気より二度低いはずの表面温度が、一度だけ上がっている。千早が近くにいるからか。千早の視線が札に触れたからか。
渡は蔵の扉を少し閉めた。風が止まった。封印の札の温度が元に戻った。
千早が立ち上がり、布の上の経巻を丁寧に巻き直し始めた。手つきは正確で、迷いがなかった。
「深山さん」
「はい」
「この蔵、好きです。紙の匂いがいい。子どものときに入りたがった理由が分かる気がします」
「蔵は変わっていませんから」
「私が変わったのかな」
千早が笑った。自分に向けた笑いだった。
渡は答えなかった。代わりに経巻を棚に戻す作業に戻った。室町期の写経を両手で持ち上げ、棚の中段に横たえる。紙の繊維が指先に触れる。楮紙の手触りは、いつの時代でも同じだ。
千早が変わったかどうかは分からない。だが千早の中にある何かが、蔵の封印と共鳴し始めている。それは確かだった。
午前の作業を終えて、渡は千早を社務所まで送った。千早が振り返った。
「また明日も手伝っていいですか」
「もちろん」
「ありがとうございます。蔵の中のこと、もっと知りたいので」
千早が去った後、渡は蔵に戻った。封印の札に手を近づけた。温度。外気より二度低い。正常値に戻っている。
だが先ほど、一度だけ上がった。
渡は札の前に立って、しばらく動かなかった。蔵の匂いが渡を包んでいる。百年分の紙と三百年分の墨と、千年分の渡の手の匂い。
千早に何を話すべきか。何を隠すべきか。渡にはまだ答えがなかった。
蔵の扉を閉め、南京錠をかけ、結界の核に手を触れた。微かな熱。正常。
正常だが、正常のままでいられる時間が、もう長くないかもしれない。