蔵の中は、いつもの紙と墨と白檀の匂いに包まれている。だが今日は、それとは別の匂いがあった。匂いというよりも気配に近い。古い水が長い時間をかけて石に染みていくような、途方もなく緩慢で、途方もなく深い気配。
千早は一人で蔵に入っていた。
六月の午後。渡は裏山の見回りに出ている。祖父は本殿で午後の祈祷。母は買い物に出た。社務所に誰もいない時間を選んだ。
南京錠の鍵は事務机の二段目。もう何度目だろう。鍵を回す手に躊躇はなかった。
蔵の中を歩いた。棚の間を抜けて、最奥部へ。封印の札が貼られた棚の前に立った。
白い和紙。墨の文字。渡の字。注連縄。EP011で触れたときと同じ場所。あのときは一瞬だけ触れて、手を引いた。
今日は引かない。
千早は右手を伸ばした。人差し指と中指。あの二本の指。EP011の記憶が指先に残っている。古くて深い存在の輪郭。怖くなかった、あの感覚。
指先が札に近づいた。三センチ。二センチ。一センチ。
熱が来た。
前回よりも強い。指の腹だけでなく、手首まで熱が伝わってくる。骨の中を通るような深い熱。だが痛くはない。温泉に手を浸けたときの、体の芯から解れていく感覚に似ている。
札に触れた。
冷たい表面。指先の内側の熱。二つの温度が重なった。
そして、視えた。
今度は一瞬ではなかった。
札の向こう側に、空間が広がっていた。空間という言葉は正確ではない。物理的な広がりはない。だが奥行きがある。時間の奥行き。千年以上の時間が圧縮されて、札一枚の厚みの中に折り畳まれている。
その奥に、何かが在った。
存在の輪郭。EP011で感じたものと同じだが、今回はもっとはっきりしている。大きくはない。人間の体ほどの密度。だが重い。千年分の時間を背負った重さ。
怒っていない。悲しんでいない。怨んでいない。
ただ、在る。
封じられたまま、静かに在る。
声が聞こえた。
声、というのは比喩かもしれない。鼓膜を振動させる音波ではない。千早の中の、名前のない感覚器に届いた振動だ。言葉として理解できる振動。
「見えるのか」
千早は息を呑んだ。
返事をすべきかどうか分からなかった。声に答えることは、対話を始めることだ。対話を始めたら何が起きるか分からない。
だが千早は答えた。
「見えます」
沈黙。札の向こう側の沈黙。千年分の沈黙。
「久しい」
それだけだった。声はそれきり聞こえなくなった。存在の輪郭も薄れていった。札の冷たさだけが指先に残った。
千早は手を引いた。
蔵の中に立っていた。呼吸が速い。心臓が打っている。汗が額に浮かんでいる。怖くはなかったはずなのに、体は全力で反応していた。
視えた。声が聞こえた。返事をした。
「久しい」と言った。あれは誰だ。何だ。千年以上封じられたまま在るものが、千早に「見えるのか」と聞いた。千早の中にある力を認識した。
蔵の入口で足音がした。
渡だった。
裏山から戻ってきたはずの渡が、蔵の入口に立っていた。息が少し乱れている。走ってきたのだ。結界の振動を感じて。
「千早さん」
渡の声は静かだったが、底に怒りがあった。怒りというよりも恐怖。千早を心配する恐怖。
「触るなと言ったはずです」
「はい。言われました」
「なぜ触った」
「確かめたかったからです」
渡が蔵の中に入ってきた。封印の札に手を近づけた。温度を確認している。渡の指先が札の表面を撫でるように動いた。
「……正常値です。でも揺れた。千早さんが触ったとき、中のものが反応した」
「知ってます。声が聞こえました」
渡の手が止まった。
「声」
「『見えるのか』と聞かれました。『久しい』と言われました」
渡の顔から血の気が引いた。千年を生きた人間の顔から色が失われるのを、千早は初めて見た。
「返事をしたんですか」
「はい。『見えます』と」
「千早さん」
渡の声が震えていた。渡が震えるのも初めてだった。
「それは——してはいけないことだった。中のものに認識されると」
「どうなるんですか」
渡が言葉を切った。切って、深呼吸をした。一度。二度。
渡は千早を見た。震えが止まった。目が変わった。覚悟を決めた目。
「話します。全部。今夜。——管理棟に来てください」
千早は頷いた。
蔵を出た。南京錠をかけた。渡が結界の核に触れて、調整した。二人とも黙ったまま蔵の前に立っていた。
六月の午後の光が境内を照らしていた。杉の枝が風に揺れている。石段の苔が光っている。いつもの境内。千年分のいつもと同じ風景。
だが今日から、何かが変わる。
千早が渡を見た。渡は蔵の白壁を見つめていた。
「深山さん」
「はい」
「私には視えたんです。あなたが千年守ってきたもの。その輪郭が。だから——もう隠さないでください。私はここにいます」
渡の目が千早を捉えた。千年分の孤独が、その瞳の奥にあった。
渡は何も言わなかった。言わなかったが、頷いた。小さく。
二人は境内に立っていた。六月の風が吹いていた。山桜はもう散って、紫陽花が蕾をつけている。季節が変わろうとしていた。
今夜、渡が全部を話す。千年分の真実を。
千早はそれを待つ。待つが、怖くはなかった。
怖くない。
この言葉が、千早の中で三度目に響いた。蔵で。禁足地で。そして今。
怖くない。だから、ここにいる。