小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第20話「蔵の奥」

2,097文字 約5分

蔵の中は、いつもの紙と墨と白檀の匂いに包まれている。だが今日は、それとは別の匂いがあった。匂いというよりも気配に近い。古い水が長い時間をかけて石に染みていくような、途方もなく緩慢で、途方もなく深い気配。

 千早は一人で蔵に入っていた。

 六月の午後。渡は裏山の見回りに出ている。祖父は本殿で午後の祈祷。母は買い物に出た。社務所に誰もいない時間を選んだ。

 南京錠の鍵は事務机の二段目。もう何度目だろう。鍵を回す手に躊躇はなかった。

 蔵の中を歩いた。棚の間を抜けて、最奥部へ。封印の札が貼られた棚の前に立った。

 白い和紙。墨の文字。渡の字。注連縄。EP011で触れたときと同じ場所。あのときは一瞬だけ触れて、手を引いた。

 今日は引かない。

 千早は右手を伸ばした。人差し指と中指。あの二本の指。EP011の記憶が指先に残っている。古くて深い存在の輪郭。怖くなかった、あの感覚。

 指先が札に近づいた。三センチ。二センチ。一センチ。

 熱が来た。

 前回よりも強い。指の腹だけでなく、手首まで熱が伝わってくる。骨の中を通るような深い熱。だが痛くはない。温泉に手を浸けたときの、体の芯から解れていく感覚に似ている。

 札に触れた。

 冷たい表面。指先の内側の熱。二つの温度が重なった。

 そして、視えた。

 今度は一瞬ではなかった。

 札の向こう側に、空間が広がっていた。空間という言葉は正確ではない。物理的な広がりはない。だが奥行きがある。時間の奥行き。千年以上の時間が圧縮されて、札一枚の厚みの中に折り畳まれている。

 その奥に、何かが在った。

 存在の輪郭。EP011で感じたものと同じだが、今回はもっとはっきりしている。大きくはない。人間の体ほどの密度。だが重い。千年分の時間を背負った重さ。

 怒っていない。悲しんでいない。怨んでいない。

 ただ、在る。

 封じられたまま、静かに在る。

 声が聞こえた。

 声、というのは比喩かもしれない。鼓膜を振動させる音波ではない。千早の中の、名前のない感覚器に届いた振動だ。言葉として理解できる振動。

 「見えるのか」

 千早は息を呑んだ。

 返事をすべきかどうか分からなかった。声に答えることは、対話を始めることだ。対話を始めたら何が起きるか分からない。

 だが千早は答えた。

「見えます」

 沈黙。札の向こう側の沈黙。千年分の沈黙。

 「久しい」

 それだけだった。声はそれきり聞こえなくなった。存在の輪郭も薄れていった。札の冷たさだけが指先に残った。

 千早は手を引いた。

 蔵の中に立っていた。呼吸が速い。心臓が打っている。汗が額に浮かんでいる。怖くはなかったはずなのに、体は全力で反応していた。

 視えた。声が聞こえた。返事をした。

 「久しい」と言った。あれは誰だ。何だ。千年以上封じられたまま在るものが、千早に「見えるのか」と聞いた。千早の中にある力を認識した。

 蔵の入口で足音がした。

 渡だった。

 裏山から戻ってきたはずの渡が、蔵の入口に立っていた。息が少し乱れている。走ってきたのだ。結界の振動を感じて。

「千早さん」

 渡の声は静かだったが、底に怒りがあった。怒りというよりも恐怖。千早を心配する恐怖。

「触るなと言ったはずです」

「はい。言われました」

「なぜ触った」

「確かめたかったからです」

 渡が蔵の中に入ってきた。封印の札に手を近づけた。温度を確認している。渡の指先が札の表面を撫でるように動いた。

「……正常値です。でも揺れた。千早さんが触ったとき、中のものが反応した」

「知ってます。声が聞こえました」

 渡の手が止まった。

「声」

「『見えるのか』と聞かれました。『久しい』と言われました」

 渡の顔から血の気が引いた。千年を生きた人間の顔から色が失われるのを、千早は初めて見た。

「返事をしたんですか」

「はい。『見えます』と」

「千早さん」

 渡の声が震えていた。渡が震えるのも初めてだった。

「それは——してはいけないことだった。中のものに認識されると」

「どうなるんですか」

 渡が言葉を切った。切って、深呼吸をした。一度。二度。

 渡は千早を見た。震えが止まった。目が変わった。覚悟を決めた目。

「話します。全部。今夜。——管理棟に来てください」

 千早は頷いた。

 蔵を出た。南京錠をかけた。渡が結界の核に触れて、調整した。二人とも黙ったまま蔵の前に立っていた。

 六月の午後の光が境内を照らしていた。杉の枝が風に揺れている。石段の苔が光っている。いつもの境内。千年分のいつもと同じ風景。

 だが今日から、何かが変わる。

 千早が渡を見た。渡は蔵の白壁を見つめていた。

「深山さん」

「はい」

「私には視えたんです。あなたが千年守ってきたもの。その輪郭が。だから——もう隠さないでください。私はここにいます」

 渡の目が千早を捉えた。千年分の孤独が、その瞳の奥にあった。

 渡は何も言わなかった。言わなかったが、頷いた。小さく。

 二人は境内に立っていた。六月の風が吹いていた。山桜はもう散って、紫陽花が蕾をつけている。季節が変わろうとしていた。

 今夜、渡が全部を話す。千年分の真実を。

 千早はそれを待つ。待つが、怖くはなかった。

 怖くない。

 この言葉が、千早の中で三度目に響いた。蔵で。禁足地で。そして今。

 怖くない。だから、ここにいる。