社務所の引き戸が、勢いよく開く音がした。
渡は蔵の前で手を止めた。虫干しの準備で経巻を布の上に並べていたところだった。社務所は境内の北側にあり、蔵からは杉の木立越しに屋根の一部が見える。普段この時間に引き戸を開ける人間は限られている。宮司の宮守老人は足音を立てない。住職の玄海は裏口から来る。氏子の総代は火曜にしか来ない。
今日は火曜ではなかった。
引き戸の音に続いて、若い女の声が聞こえた。
「おじいちゃん。ただいま」
渡の手が、経巻の上で一拍止まった。
千早だ。
宮守千早。宮守家の長女。去年の春に東京の大学へ進学して家を出た。帰ってくると聞いてはいた。玄海に聞いたのが三日前で、だからこの三日間、渡は少しだけ境内の掃除を念入りにしていた。自覚はある。自覚はあるが、理由を名づけたくはなかった。
経巻を布で覆い、蔵の扉を半分閉めて社務所に向かった。
社務所の土間に、スーツケースが一つ置いてあった。ネイビーの布製。角が擦れている。持ち手に大学のロゴ入りのタグ。その横に、スニーカーが脱ぎ散らかされている。右足が上向き、左足が横倒し。急いで入ったのだろう。
板の間に上がると、宮守老人が座卓の向こうに座っていた。七十八歳。背は曲がり始めているが、目は鋭い。宮司の正装ではなく、普段着の作務衣を着ている。その向かいに、千早が正座していた。
一年ぶりに見る千早は、少し痩せたように見えた。顎の線が細くなっている。髪は肩より少し長く、後ろで一つに束ねている。化粧はしていない。大学に入ったばかりの頃の、まだ東京に馴染みきっていない空気が残っていた。
「千早、管理人の深山さんだ。覚えているだろう」
宮司が渡を紹介した。渡は板の間の端に立って、軽く頭を下げた。
「お帰りなさい。お久しぶりです」
千早が渡を見た。
見た、というよりも観察した、というほうが正確だった。目が渡の顔から手に移り、服装に移り、靴下の汚れに移り、蔵の方角にちらりと視線を飛ばしてから、また渡の顔に戻った。一秒半。渡はその視線の動きを全て追えた。千年も生きていると、人間の視線の移動パターンは読める。この子は対象を分解して見ている。研究者の目だ。
「覚えてます。蔵の管理をしてる人ですよね。子どものとき、蔵に入りたがって怒られた」
「覚えていてくれたんですね」
「おじいちゃんに怒られたことは忘れません」
宮司が鼻を鳴らした。笑ったのか呆れたのか、判別しにくい音だった。
「茶でも出してやれ、深山」
「心得ました」
心得ました、と口にしてから、渡は自分の言い回しに気づいた。現代の管理人は「心得ました」とは言わない。「分かりました」か「はい」が自然だ。千早がこちらを見ている。引っかかったかもしれないし、引っかかっていないかもしれない。この子の観察力は、子どもの頃から侮れなかった。
台所で湯を沸かした。急須は宮守家のもので、萩焼の古い品だ。渡がこの家に来た四十年前から同じ急須を使っている。取っ手の漆が剥げた部分を渡が漆で補修したのは十五年前のことだが、そのことは誰にも言っていない。
茶を淹れて座卓に置いた。千早が湯呑みを両手で包むように持ち、一口飲んだ。
「おいしい。この急須、まだ使ってるんですね。取っ手の漆、きれいに直してある」
気づいている。漆の補修に気づく十八歳は多くない。
「宮司さんが直されたんでしょう」
「いや」宮守老人が首を振った。「わしは知らん。気づいたら直っていた」
千早の視線が渡に移った。渡は答えなかった。茶を飲んだ。
宮守老人が席を立ち、本殿の方へ歩いていった。午後の祈祷の準備があるのだろう。座卓に千早と渡が残された。
千早が湯呑みを置いた。
「深山さん。一つ聞いていいですか」
「はい」
「管理人って、いつからやってるんですか」
「四十年ほど前からです」
「四十年」
千早の目が渡の顔を測った。渡の外見は二十代後半から三十代前半に見える。四十年前からここにいるなら、少なくとも五十代後半のはずだ。
「若く見えますね」
「よく言われます」
「お世辞じゃなくて、純粋に不思議だなと思って」
渡は茶を飲んだ。この問いには何度も答えてきた。四十年の間に、何人かの人間がこの疑問を持った。答えはいつも同じだ。
「母方の家系が若く見える体質でして」
嘘ではない。母の顔はもう覚えていないが、若く見える体質であることは事実だ。千年近く若いままなのだから。
千早は頷いた。納得したようには見えなかったが、追及はしなかった。代わりに、別のことを聞いた。
「蔵の中って、見せてもらえますか」
「宮司さんの許可があれば」
「おじいちゃんに聞いてきます」
千早が立ち上がって本殿のほうへ歩いていった。渡は座卓の前に一人残された。
千早が板の間に立ったとき、渡は感じていた。微かな異変。千早の体の周囲に、蔵の結界の核と同じ種類の熱がある。人間の体温ではない。もっと深いところから発している熱。結界に反応する体質。あるいは、結界と共鳴する何か。
子どもの頃にはなかった。少なくとも、渡は気づかなかった。大学に入って一年。何かが変わったのか、それとも、もともとあったものが閾値を超えたのか。
渡は湯呑みを片付けながら考えた。
この子に何があるのか、確かめる方法はある。蔵の封印の前に立たせれば、反応が出るかもしれない。だがそれは、千早を巻き込むことになる。巻き込めば守らなければならなくなる。守ろうとすれば、また。
渡は湯呑みを洗った。萩焼の急須を棚に戻した。手が覚えている動作だ。湯呑みを洗い、急須を戻し、布巾で台を拭く。千年間、何度繰り返したか分からない所作。
手を動かしていると、考えが静まる。考えが静まれば、判断を先送りにできる。先送りは渡の得意技だった。千年分の先送りの蓄積が、今の渡を作っている。
社務所の窓の外で、千早の声がした。宮司と何かを話している。笑い声が混じった。千早が笑うと声が高くなる。子どもの頃と同じだ。
渡は窓の外に目をやった。四月の午後の光が境内を照らしている。桜はもう散ったが、山桜がまだ残っている。花弁が風に乗って、社殿の屋根の向こうに消えていった。
千早が戻ってきた。
「おじいちゃんが、明日なら見せてもいいって。深山さんが一緒にいるなら、って」
「では明日、午前中に」
「ありがとうございます。楽しみです」
千早が笑った。子どもの頃に蔵に入りたがったときと同じ目をしている。好奇心の温度が、十年経っても変わっていない。
渡はそれに応えて微笑んだ。微笑みながら、心のどこかが冷えていた。
この子を蔵に入れていいのか。封印の前に立たせていいのか。渡にはまだ分からなかった。分からないまま、明日が来る。
境内の山桜が、もう一枚散った。