雨上がりの夕方は、世界中の匂いが一度に戻ってくる。
杉の樹皮から水が蒸発する匂い。苔が水を放出する匂い。石段の石灰が雨水に反応するわずかな匂い。境内の土から立ち上る、生きた土の匂い。千年の間に嗅いだすべての雨上がりが、この一瞬に重なる。
渡は管理棟の縁側に座っていた。千早がゆっくりと石段を上がってくるのが見えた。
三日前に筆跡を突きつけられて以来、千早は渡を避けていなかった。避けるどころか、普通に接していた。蔵の手伝いをし、境内を散歩し、茶を飲みに来た。ただし、追及はしなかった。待っていた。
今日、千早が来たのは夕方だった。普段は午前中に来る。夕方に来るのは初めてだ。
「深山さん。話せるところだけでいいので、聞かせてもらえませんか」
渡は茶を淹れた。二人分。千早用の湯呑みが、いつの間にか管理棟に常備されるようになっていた。最初は社務所から持ってきた紙コップだったが、先週渡が商店街の陶器屋で湯呑みを一つ買った。白い萩焼。小ぶりのもの。千早の手に合うサイズ。
茶を渡した。千早が両手で受け取った。
「何を聞きたいですか」
「全部は無理でしょうから、一つだけ。深山さんは、いつからここにいるんですか」
渡は茶を飲んだ。苦い。今日の茶は苦い。
「千年以上です」
千早の手が、湯呑みの上で止まった。
「千年」
「正確には覚えていません。暦が変わって、数え方が変わって。だが少なくとも千年は」
「千年前って、平安時代」
「もう少し前です。飛鳥の終わり頃」
千早が茶を飲んだ。飲んでから、湯呑みを膝の上に置いた。
「つまり、奈良時代に宮守家がこの神社を建てたとき、深山さんはもうここにいた」
「ここ、ではありませんでした。この土地に来たのは江戸の頃です。それ以前は各地を転々としていました」
「転々と」
「名前を変えて、立場を変えて。長く同じ場所にいると、老けないことを怪しまれる」
千早の目が渡の顔を見つめた。二十代後半に見える顔。千年分の時間が圧縮されている顔。
「なぜ老けないんですか」
「分かりません。飛鳥の時代に、山中で——何かに触れて。それ以来、体が時間の外に出てしまった。病気にはなるし、怪我もする。死なないわけではない。だが老いない」
「何に触れたんですか」
渡は答えなかった。ここから先は、まだ話せない。役小角の修行圏。行者見習いとしての日々。あの山中での奇縁。それを語るには、封印の正体を語らなければならない。封印の正体は、まだ千早に話す段階ではない。
「話せません。今は」
「分かりました」
千早はそれ以上押さなかった。だがもう一つ聞いた。
「なぜこの土地を守っているんですか。千年も一人で」
渡は夕暮れの境内を見た。社殿の屋根が残照に照らされて、銅板が暗い橙色に光っている。
「守ることが——俺の仕事だったからです。最初は誰かに頼まれた。誰に頼まれたかは覚えていません。でも仕事の内容は覚えている。封印を守り、結界を維持し、場を整える。それが俺の務めだった」
「務め」
「ええ。やめる理由がなかった。やめても行く場所がなかった。人の時間から外れた人間は、人の時間の中に戻れない。だから——守り続けた」
風が吹いた。雨上がりの風。湿った空気が頬を撫でた。
「深山さん。もう一つだけ」
「何ですか」
「なぜ私に隠そうとしたんですか。千年生きていることも、封印のことも。蔵荒らしも、読経の声も。全部隠そうとした」
渡の手が湯呑みの上で止まった。
答えは分かっている。分かっているが、声にするのは別のことだ。
「……守ろうとしたからです」
「守る?」
「千早さんを。知れば巻き込まれる。巻き込まれれば危険になる。危険になれば——」
渡は言葉を切った。
危険になれば、守らなければならなくなる。守ろうとして、また失敗するかもしれない。
千早が渡を見ていた。夕暮れの光が横から当たっていて、千早の瞳が琥珀色に見えた。
「深山さん。前に誰かを守ろうとして、守れなかったことがありますか」
渡の手が握りしめられた。湯呑みが軋んだ。
「あります」
「それで隠すようになった」
「……はい」
千早は何も言わなかった。しばらく二人で縁側に座っていた。夕暮れが沈んでいく。社殿の影が長くなる。鳥が巣に帰っていく声がする。
「深山さん」
「はい」
「私を守りたいっていう気持ちは分かります。でも、隠されるのは辛いんです。知らないほうが安全だとしても、知らないまま守られるのは——違うと思う」
渡は千早を見た。十八歳の横顔。夕暮れの中で、大人とも子どもともつかない輪郭。
「知ってたら、自分で判断できます。逃げるのか、立ち向かうのか、受け入れるのか。それを選ぶのは私です。深山さんじゃない」
渡の胸の中で、古い記憶が動いた。
飛鳥の時代。修行圏の少女。霊的感受性が高かった子。渡はあの子を守ろうとした。守ろうとして、力を封じようとした。あの子の意志を聞かずに。あの子が何を望んでいるかを確かめずに。渡が「守る」と決めて、渡の判断で動いて、結果として——。
渡は目を閉じた。
千早の言葉が正しい。判断するのは千早だ。渡ではない。
「……心得ました」
「また出た。その言い方」
「すみません。つい」
「謝らなくていいです。古い言葉が出てくるのは、深山さんが本音を話しているときだと思うので」
千早が笑った。渡も笑おうとした。笑えたかどうかは分からない。口元は動いたが、目は笑えていなかったかもしれない。
千早が立ち上がった。
「今日はここまでにします。続きは——深山さんが話せるときに」
「ありがとうございます」
「お茶、美味しかったです。この湯呑み、新しいですね」
「……商店街で」
「私のために買ったんですか」
渡は答えなかった。答えない沈黙が、答えになっている。
千早が石段を降りていった。渡は縁側に座ったまま、千早の背中を見ていた。
石段の三段目で千早が振り返った。
「深山さん。一人で守らなくていいんですよ」
それだけ言って、千早は社務所のほうへ歩いていった。
渡は縁側で、冷めた茶を見つめていた。千早の湯呑みが縁側に残っていた。白い萩焼。茶の残りが少しだけ底に残っている。
一人で守らなくていい。
千年間、誰にも言われたことのない言葉だった。