六月の空気は湿度を含んでいて、古い紙の匂いがいつもよりも濃く感じられた。
千早は社務所の板の間に三つの文書を並べていた。
一つ目。蔵の封印の札のスケッチ。千早が蔵の中で記憶を頼りに描いたものだ。文字そのものは読めないが、筆の運び方、線の太さ、入りと抜きの癖は再現できた。
二つ目。明治三十七年の修繕記録。社務所の帳簿から。社殿の屋根の葺き替えに関する費用明細。EP007で見つけた筆跡。
三つ目。家系図の余白にあった注記。宝暦年間と記された修繕の記録。これは昨日、祖父の書斎で見つけた。宝暦は一七五一年から一七六三年。二百七十年前。
三つの文書を横に並べると、筆跡の一致は明らかだった。
縦棒の終わりで力を抜く癖。横棒の入りが右上がりになる癖。「之」の字の最後の払いが長い癖。三つの時代の文書に、同じ人間の手が入っている。
千早は渡が管理棟から出てくるのを待った。午前の結界点検が終わり、渡が石段を降りてくる。箒を持っている。いつもの朝。
「深山さん。見てほしいものがあります」
渡は箒を壁に立てかけ、社務所に入った。千早が並べた三つの文書を見た。
渡の表情が変わらなかった。変わらなかったが、呼吸が変わった。吸う間隔が長くなった。深く吸って、ゆっくり吐く。渡が自分を制御しようとするときの呼吸。千早はそれを覚えていた。
「これは何ですか」
「三つの文書です。一つは蔵の封印の札。一つは明治の修繕記録。一つは宝暦年間の家系図の注記」
「ええ」
「三つとも、同じ筆跡です」
渡が三つの文書を順番に見た。視線の動きが緩やかだった。見慣れたものを見るときの目の動き。初めて見るものは視線が速い。知っているものは遅い。
「似ていますね」
「似ているではなく、同じです。縦棒の力の抜き方。横棒の入り。『之』の払い。三つの時代の文書に同じ癖が出ています」
「前任の管理人の家系が——」
「深山さん」
千早は渡の目を見た。渡も千早を見た。二人の視線が合った。社務所の板の間で、六月の湿った空気の中で。
「この字、あなたの字ですよね。管理人さん」
渡は答えなかった。
沈黙が落ちた。雨戸の向こうで鳥が鳴いている。境内の杉が風に揺れる音。遠くで沢の水が流れている。
千早は待った。渡が嘘をつくか、沈黙を選ぶか。
渡は沈黙を選んだ。
五秒。十秒。十五秒。
渡の手が膝の上にあった。動いていない。手が止まっている。普段の渡は手を動かし続ける。茶を淹れる、書類を揃える、箒を持つ。手が止まるのは、嘘をつくことも真実を話すこともできないときだ。
「答えられないんですね」
「……はい」
「でも否定もしない」
「否定はしません」
千早は文書を片付けた。一つずつ丁寧に。スケッチをノートに挟み、帳簿を事務机に戻し、家系図の注記のコピーを鞄に入れた。
「深山さん。私はあなたが何者か知りたいんです。でも無理やり聞き出すつもりはない。あなたが話す準備ができたら、聞かせてください」
渡は何も言わなかった。手が膝の上で動き始めた。指先が親指の腹をこすっている。小さな動き。不安か、後悔か、判断のつかない感情の残滓。
「一つだけ聞いていいですか」
「……どうぞ」
「宝暦の記録にも、明治の記録にも、蔵の札にも、あなたの字がある。つまりあなたは、少なくとも二百七十年以上、この神社にいる。それは合っていますか」
渡の指が止まった。
それから、静かに動き出した。
「もっと長いです」
千早の心臓が一拍跳ねた。
「もっと長い。それだけですか」
「今日のところは」
千早は頷いた。「今日のところは」を受け入れた。今日はここまで。明日はもう少し先に行けるかもしれない。
社務所を出た。石段を降りた。六月の空は曇っている。雨が近い。湿った風が頬に触れた。
千早の胸の中で、十の事実が十一になった。
十一、深山渡は少なくとも二百七十年以上この神社にいる。本人が「もっと長い」と認めた。
十一の事実。どれだけ集まれば、渡は全部を話してくれるのだろう。
千早には分からなかった。だが焦る気持ちはなかった。渡が少しずつ防壁を下げていることは感じていた。最初は「前任の字」で躱していた。次に「話せない」と正直に言った。今日は「もっと長い」と認めた。
少しずつ。苔が石段を覆うように、ゆっくりと。
千早は自分の部屋に戻り、ノートを開いた。十一の事実の下に、今日の日付を書いた。
そして、事実ではなく疑問を書いた。
「深山渡は、なぜ一人で守り続けているのか」
ペンを置いた。窓の外で、雨が降り始めた。