小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第17話「夜の蔵」

2,170文字 約5分

雨の匂いがする夜だった。まだ降ってはいないが、空気の中に水分が増えて、土と苔の匂いが強くなっている。明日は雨だろう。渡の体は天気予報より正確だ。千年分の気象データが骨に刻まれている。

 午前一時。結界が震えた。

 前回と同じ振動。蔵の核が熱を帯びている。侵入者。

 渡は布団から出た。地下足袋を履いた。今回は上着も羽織った。前回は作務衣だけで出たが、五月末の深夜は冷える。千年生きていても風邪はひく。

 蔵に近づいた。

 前回と違っていた。

 結界の核の振動パターンが異なる。前回は正面からの接触だった。結界にぶつかって弾かれた。今回は振動が弱い。弱いが持続している。結界を迂回している。核に直接触れずに、結界の薄い部分を探って中に入ろうとしている。

 渡は足を止めた。

 結界の構造を知らなければ、この動きはできない。結界がどこで強く、どこで弱いかを把握している人間の動きだ。EP008の侵入者は蝶番を外して入った。物理的な侵入だった。今回は結界そのものに対する知識がある。

 蔵の北壁に回った。換気窓。前回の侵入者が脱出に使った窓だ。今回の侵入者は、この窓から入っていた。窓の格子が外されている。

 渡は窓から中を覗いた。

 人影が二つあった。

 二人。前回は一人だった。今回は二人。一人は懐中電灯で棚を照らし、もう一人が棚の中を調べている。二人の動きは連携がとれていた。訓練されている。

 調べ方も違った。前回の侵入者は木箱を開けて中を確認していた。今回の二人は、棚そのものを調べている。棚の裏面、底面、側面。構造を見ている。

 封印された棚には近づいていなかった。結界に弾かれることを知っている。だから避けている。代わりに、封印された棚の周囲の棚を調べている。封印の構造を外側から推測しようとしているのだ。

 渡は蔵に入らなかった。

 入れば二対一になる。渡ならば二人でも対処できるが、戦えば痕跡が残る。渡の戦い方は結界と封の術式だ。使えば蔵の中に術の残滓が残り、それ自体が情報になる。相手が結界の知識を持っているなら、渡が何者かを推測する手がかりを与えてしまう。

 渡は待った。

 四十分ほどで、二人は蔵を出た。換気窓から。来たのと同じルートで。渡は杉の木の陰から二人の背中を見た。黒い服。帽子。顔は見えない。体格は前回の侵入者よりも大きい。二人とも百七十以上。別の人間だ。

 二人は境内の裏手から山道に入り、姿を消した。

 渡は蔵に入った。棚を確認した。中身は荒らされていない。棚の構造を調べた痕跡が残っている。棚の裏板に、小さなチョーク跡があった。印だ。次に来たときの目印として残したのだろう。

 渡はチョーク跡を拭き取った。

 管理棟に戻った。手を洗い、茶を淹れた。飲まずに冷めるまで待った。

 整理する。

 EP004の足跡。EP006の祠の札。EP008の蔵荒らし一回目。EP014の偽の研究者・沢木。そして今夜の二回目。

 一回目は単独犯で、蔵の中身を探していた。二回目は二人組で、封印の構造を外側から調べていた。一回目と二回目は別の人間。だが同じ目的で動いている。

 指示系統がある。

 誰かがこの神社の蔵に興味を持ち、段階的に偵察を進めている。最初は古物商の名を使って合法的に接触し、次に物理的な侵入で中身を確認し、今度は結界の構造を調査している。

 沢木の名刺と赤松の名刺は同じ紙質だった。同じ組織。その組織は結界の知識を持っている。

 渡は冷めた茶を飲んだ。苦い。冷めた茶は不味い。千年間、冷めた茶が美味かったことは一度もない。

 翌朝。郵便受けに封筒が一通入っていた。

 六角からの返事だ。

 渡は管理棟の二階で封筒を開けた。便箋が二枚。六角の字は細く、読みやすい。

 「深山様。お尋ねの丹波文化財保存会について。この名称の法人は実在しますが、設立は今年一月。所在地は東京都千代田区のバーチャルオフィスです。代表者は赤松成彦となっていますが、この名前での活動歴は確認できません。おそらく偽名です」

 予想通りだった。

 「ただし、気になる点が一つあります。この法人の設立届に使われた印鑑証明の住所が、以前私が扱った案件と接触しています。三年前に東北地方の寺院から古い経巻が盗まれた事件がありました。その経巻は呪術的な価値があるとされていた品で、盗難後の流通ルートを追ったところ、同じ住所が浮かびました。闇市場で宗教関連の古物を扱っているグループの一端だと思われます」

 渡は便箋を膝の上に置いた。

 闇市場。宗教関連の古物。呪術的な価値。

 蔵の封印された棚の中身は、闇市場に出せば値がつくものだろうか。経巻や神具であれば、古美術のルートで高額で取引される。だが封印そのものに価値を見出しているとすれば、相手は古美術商ではない。

 六角の手紙の最後にこう書いてあった。

 「深山様が関わっているものが何であれ、この相手は慎重に扱うべきです。末端は小物ですが、上に誰がいるかは分かりません。ご安全をお祈りいたします。——六角」

 渡は便箋を折りたたみ、懐にしまった。

 千早に話すべきか。

 蔵が組織的に狙われていること。相手が結界の知識を持っていること。闇市場との繋がり。

 「隠さないで」と千早は言った。

 渡は窓の外を見た。朝の境内。石段。社殿。蔵の白壁。

 隠さない。だが全部を話す覚悟もまだない。

 渡の中で、守りたい気持ちと、隠してはいけないという自覚が、二匹の蛇のように絡まっていた。