小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第15話「山の膜」

3,170文字 約7分

五月の終わりの山は、土の匂いが変わる。

 冬の間に凍結していた地表が完全に融け、虫や微生物が動き始めると、土そのものが呼吸するような匂いを出す。腐葉土の甘さと、菌糸の酸味と、若い根が伸びていくときの青い匂い。渡はこの匂いを千年分知っている。春の終わりの山は、一年のうちで最も生命の密度が高い。

 朝の結界点検で異変を感じた。

 主結界は正常だった。蔵の核も正常。旧参道の副核も正常。だが西の禁足地の方角から、微かな振動があった。結界が弱まっている。穴が開いているわけではない。膜が薄くなっている。水風船の表面が伸びて、透けて見えるようになったような状態。

 補修が必要だった。

 渡は道具を準備した。楮紙の札を五枚。筆ペン。糊。清めの塩。白布。水筒に入れた清水。これらを布の袋に入れて背負う。

 管理棟を出ようとしたとき、千早が石段の上に立っていた。

「深山さん。どこか行くんですか」

「裏山の奥です。結界の点検に」

「一緒に行っていいですか」

 渡は断ろうとした。禁足地は千早を連れていく場所ではない。結界が弱まっている場所に、封印と共鳴する体質の人間を近づけるのは危険だ。

 だが千早の目は、すでに「断られても行く」と決めた目をしていた。

「管理人の仕事を見たいんです」

「危険な場所です」

「危険の種類を教えてください」

「足場が悪い。獣がいる可能性もある」

「それなら二人のほうが安全ですよね」

 渡は千早の論理に負けた。論理に負けたというよりも、千早を一人で残して、その間に蔵や境内で何かが起きることのほうが不安だった。

「……まあ、ご一緒しましょう。ただし、私が止まれと言ったら止まってください」

「はい」

 旧参道を途中まで上り、通行止めの柵の手前で脇道に入った。杉林の中を北西に進む獣道。渡が普段使っている道で、月に一度、禁足地の境界を確認するために歩く。

 千早は黙ってついてきた。足元を見て、枝をよけ、根を跨ぐ。山を歩き慣れている。子どもの頃に祖父と裏山を歩いた経験が体に残っているのだろう。

 二十分ほど歩くと、杉林が途切れた。

 目の前に、広場のような空間が開けている。木が生えていない。地面は短い草に覆われていて、中央に大きな石がある。石は自然石で、高さは一メートルほど。表面に苔が生え、頂部が平らに削られている。磐座だ。

 その先は雑木林になっている。楢と栗と山桜。手入れされていない自然の林で、下草が深く、中は暗い。

 渡は磐座の前で立ち止まった。

「ここまでです」

「ここが禁足地?」

「この先が禁足地です。磐座が境界の標になっています」

 千早が磐座を見つめた。石の表面を観察している。

「この石、人の手が入ってますよね。頂部が平らに削られてる」

「ええ。祭壇として使われていた石です。いつの時代のものかは——」

 渡は口を閉じた。いつの時代のものかは知っている。渡自身がこの石の据え付けに立ち会っている。だがそれを言えば、また千早の九つ目が十個目になる。

「古いんですね」

「はい。とても」

 渡は袋から道具を出して、磐座の周囲に札を貼り始めた。結界の補修作業。磐座が境界の核のひとつになっていて、札がその核の出力を安定させる。

 千早は数歩離れたところに立って見ていた。渡が札を書き、糊を塗り、石の表面に貼る所作を。

「深山さん。その札の文字、蔵のと同じですね」

「同じ書き方です」

「つまり、深山さんが書いている」

 渡は答えなかった。答える代わりに、二枚目の札を書いた。

 三枚目を貼ったとき、渡は結界の膜が厚くなっていくのを感じた。札を貼るたびに、境界面が強化される。温度差が戻る。外側の空気と内側の空気の質感が、分かれていく。

 四枚目。五枚目。

 補修が終わった。結界は正常に戻っている。

 渡が道具を片付けていると、千早が禁足地の方向を見ていた。雑木林の入口。暗い。下草が茂っている。鳥の声がしない。

「千早さん?」

 千早が立ち止まっていた。

 立ち止まっている、というよりも、足が止まっていた。自分の意志で止まったのか、何かに止められたのか。千早自身にも分からないような表情をしていた。

「ここ」

「はい」

「何かいる」

 渡の背中が冷えた。

「見えないけど、分かる。この先に何かがある。大きくはないけど、深い。蔵で感じたのと同じ。でももっと近い。もっとはっきりしてる」

 千早の目が雑木林の奥を見ている。目で見ているのではない。体の別の感覚器で、林の奥にあるものの輪郭を捉えている。

 渡は千早の横に立った。千早が見ている方向を、渡も見た。

 渡にも感じられた。禁足地の奥に在るもの。千年間、渡が見守ってきたもの。結界の向こう側に封じられたもの。

 千早には、それが見えている。正確には見えているのではない。感じている。存在の密度を体で受け取っている。

「千早さん。ここから先には入らないでください」

「分かってます。入る気はないです。でも」

「でも?」

「この感覚が何なのか、教えてくれませんか」

 渡は千早を見た。十八歳の横顔。風が髪を揺らしている。目は禁足地の奥を見つめている。怖がってはいない。好奇心でもない。もっと静かな感情。知りたいという意志。

「今は話せません」

「いつか話してくれますか」

「いつか——は、約束できないと言いました」

「じゃあ、もう一つだけ。この感覚は、私だけのものですか。深山さんにも感じられますか」

 渡は三秒黙った。嘘をつかないと約束した。沈黙は許されている。だが沈黙は、時として嘘よりも多くを語る。

「感じられます。私にも」

 千早が渡を見た。

「つまり、深山さんにも同じものが見えている」

「見えるというよりは、感じています。長い間」

「長い間って、四十年ですか」

 渡は答えなかった。四十年ではない。千年だ。だがそれは、まだ言えない。

「帰りましょう」

 千早は頷いた。二人で獣道を戻った。

 歩きながら千早が言った。

「深山さん。私、怖くなかったです」

「怖くない?」

「あの感覚。蔵で感じたときも、今も。怖くない。なぜだか分からないけど。古くて、深くて、でも敵意がない。ただ、そこにある」

 渡は足を止めなかった。歩き続けた。千早の言葉が胸に刺さっていた。

 怖くない。

 千年前にも、同じことを言った人間がいた。渡が守ろうとして、結局守れなかった少女。あの子も言っていた。「怖くないです」と。

 渡の手が、無意識に握りしめられていた。

 杉林を抜けて、旧参道に戻った。石段を降りて境内に出た。午後の日差しが眩しかった。

 千早が振り返った。

「今日は連れていってくれて、ありがとうございました」

「いいえ。——千早さん」

「はい」

「あの場所のことは、誰にも言わないでください」

「おじいちゃんにも?」

「宮司さんは禁足地の存在を知っています。だが中身のことは知らない。知らないほうがいい」

 千早は数秒黙った。それから頷いた。

「分かりました。黙ります。でも、これだけは聞かせてください」

「何ですか」

「深山さんは、あれを守ってるんですか」

 渡は千早を見た。

「守っています」

「一人で?」

「一人で」

「いつから?」

 渡は答えなかった。千早もそれ以上聞かなかった。

 社務所の方角から、宮司の声がした。千早が手を振って駆けていった。

 渡は境内に立って、禁足地の方角を見た。杉林の向こう。磐座。雑木林の入口。結界は補修した。正常に戻っている。

 だが千早にはもう見えている。結界の向こう側が。

 渡はそれを止められない。止める方法があるとすれば、千早をこの町から遠ざけることだ。東京に帰してしまえばいい。

 だが千早は戻ってくるだろう。この感覚が何なのか知りたがって、また戻ってくる。

 渡は管理棟に向かった。手を洗い、顔を洗い、茶を淹れた。一人分。

 湯呑みを持って窓辺に立った。禁足地の方角を見た。

 千年間、一人で守ってきた。一人でよかった。一人なら、失う心配がない。

 だが今、もう一人見えている人間がいる。

 渡の湯呑みの中で、茶が冷めていった。