樟脳の匂いがする季節になった。蔵の防虫のために渡が調合した香の残り香が、五月の湿った空気に溶けて境内を漂っている。
午後一時。社務所の引き戸が丁寧に開く音がした。丁寧すぎる。この音の出し方をする人間は、普段から引き戸のある建物に出入りしている者か、あるいは引き戸の開け方を意識的に制御できる者だ。
渡は蔵の前にいた。杉の木立越しに、社務所の入口に立つ人影が見えた。
男。五十代半ば。灰色のジャケットに紺のスラックス。革靴。髪を後ろに撫でつけている。鞄は古い革のブリーフケースで、使い込まれた光沢がある。
学者の身なりだった。大学の教員か研究者。そういう人間の服装と持ち物の選び方をしている。だが渡の目には、一つだけ合わないものがあった。靴だ。革靴のソールが新しすぎる。学者が地方のフィールドワークに新品の靴で来ることはない。
宮守老人が社務所から出てきて、男と話し始めた。渡は近づかず、杉の木の陰から観察した。
五分ほどの会話の後、宮守老人が渡を呼んだ。
「深山。お客さんだ。大学の先生だそうだ」
渡は社務所に入った。男が名刺を差し出した。
「東北民俗研究会 主任研究員 沢木誠一郎」。住所は仙台市。電話番号。大学の名前は書いていない。
「沢木と申します。御社の由緒について、学術的な調査をお願いしたいのですが」
声は穏やかだった。目は鋭かった。EP004で見つけた足跡の主と同一人物かどうかは分からない。だが靴のサイズは近い。二十六センチ前後。
「どのような調査でしょうか」
「神凪神社の創建に関わる文献資料の閲覧です。特に、奈良時代から平安初期にかけての記録があれば」
「創建の記録は、宮守家にございます。宮司にご相談ください」
宮守老人が頷いた。祖父は好意的だ。学術調査と聞けば協力したくなる。神社の由緒を誇りに思っている人間の当然の反応だ。
「では、少しお話を聞かせていただけますか。この神社の祭神は」
「天之御中主神です。元は修験の行場でありまして——」
宮守老人が語り始めた。渡は黙って聞いていた。宮司が語る由緒は表向きのものだ。修験の行場としての歴史。鎌倉期の石仏。江戸初期の常光寺との関係。公開可能な情報の範囲。
だが沢木の質問が、徐々に方向を変えていった。
「封印に関する記録はありませんか」
渡の背筋が冷えた。
「封印?」
「ええ。修験道の行場には、山中の霊的な力を封じるための術式が施されている場合があります。結界や封というものです。このお社にも、そうした記録が残っていないかと」
封印。結界。封。
一般の民俗学研究者なら、「封印」という語彙を使わない。「禁忌」「禁足地」「聖域」と言う。封印は術者の語彙だ。結界もそうだ。研究者ではなく実践者の言葉遣い。
「封印というのは、具体的にどういった意味でしょう」
渡が聞いた。沢木は微笑んだ。
「文献上の用語です。修験道の文献には、山中の霊力を特定の場所に集中させ、管理するための術式が記録されています。そうした術式の痕跡がこの神社に残っていないかと」
「蔵の中に、古い術式に関する文献はいくつかあります。ただし、閲覧には制限がございます」
「制限?」
「宮守家の判断で、一般には公開していない資料があります」
沢木の目が、一瞬だけ変わった。変わったのは表情ではなく、瞳孔だ。わずかに収縮した。情報を得た人間の反応。「一般には公開していない資料がある」という情報そのものが、沢木にとっての収穫だった。
「なるほど。では公開されている範囲の資料を拝見できれば」
宮守老人が渡を見た。渡は頷いた。公開範囲の資料であれば問題ない。
蔵に案内した。蔵の前半分、虫干しのときに千早と扱った棚。経巻と奉納帳。沢木は丁寧に資料を閲覧した。手袋をしている。扱いに慣れている。本物の研究者のように見える。
だが渡は沢木の視線を追っていた。沢木は資料を見ながら、蔵の奥を何度かちらりと見ている。封印された棚の方向を。
一時間ほどで閲覧を終えた沢木が、帰り際に言った。
「素晴らしい資料ですね。ぜひ継続的に調査させていただきたい」
「宮司と相談いたします」
「ありがとうございます。それと——管理人さん」
「はい」
「この蔵の管理は、おひとりでされているんですか」
「ええ」
「大変ですね。古い蔵の管理は専門知識が必要ですから。——お若いのに、よくご存じだ」
お若いのに。渡はその言葉の含みを読み取った。お若いのに古文書の扱いに長けている。お若いのに蔵の構造を熟知している。沢木は渡の不自然さにも気づいている。
「先代の管理人に教わりました」
「先代。なるほど。——では、また伺います」
沢木が去った後、渡は名刺を見つめた。東北民俗研究会。沢木誠一郎。
「丹波文化財保存会 赤松成彦」。先月の古物商の名刺。
二枚の名刺を並べた。紙質が同じだった。同じ印刷所で刷られている。文字のフォントも同じ。名前と肩書きが違うだけだ。
同一人物か。あるいは同じ組織の別の人間か。
千早が社務所から出てきた。沢木が帰るのを中から見ていたのだろう。
「深山さん。あの人、研究者じゃないですよね」
渡は千早を見た。千早も気づいていた。
「なぜそう思いますか」
「質問の仕方が変でした。由緒を聞いてるふりして、封印のことを聞いてた。民俗学の研究者なら、もっと回りくどく聞くはずです。最初から知ってることを確認するような聞き方でした」
渡は驚いた。千早の分析が正確だった。
「千早さん。あの男に近づかないでください」
「また隠しますか」
「隠すのではなく——」
「じゃあ何ですか」
渡は言葉を探した。隠すのではない。守るのでもない。ただ、あの男が何者か分からない以上、千早を近づけたくない。だがそれを言えば「守ろうとしている」と指摘される。
「……話せません。今は。でも、嘘はつきません」
千早が渡を見た。数秒。
「分かりました。話せないなら待ちます。でも、あの人が次に来たら、私も同席します」
「それは——」
「隠さないって約束したでしょう。同席は隠さないの最低限です」
渡は反論できなかった。千早の論理は正しい。「隠さない」と約束したなら、情報を共有する場に千早がいることを拒む理由がない。
「……心得ました」
「その言い方、癖になってますよ」
千早が微かに笑って社務所に戻った。渡は名刺を二枚、懐にしまった。
六角からの返事はまだ来ていない。手紙が届くのに一週間。返事を書いて送り返すのに一週間。最短でもあと数日かかる。
それまでに、沢木が次の手を打ってくるかもしれない。