五月の風には若葉の匂いが混じる。杉だけでなく、楢や朴の葉が開いて、山全体が明るい緑に変わっていく季節だ。
千早に誘われて、町を歩いた。千早が「おじいちゃんに頼まれた買い物がある」と言い、渡が「荷物が多ければ持ちましょう」と答えた。それだけの理由で二人で商店街を歩いている。
酒屋で祭祀用の酒を注文した。金物屋で蝶番のネジを買った。食堂の前を通ると女将が「あら、兄さん今日はお連れさんがいるね」と声をかけてきた。渡は微笑んで会釈した。千早は「兄さんって呼ばれてるんですね」と笑った。
商店街の端に、観光案内所がある。小さなプレハブの建物で、地元のボランティアが運営している。中にはパンフレットと、神凪町の歴史年表と、義経伝説に関する展示パネルが並んでいる。
「入ってみましょう」
千早がドアを開けた。中は狭い。ボランティアのおばさんが一人、受付に座っている。
「いらっしゃい。千早ちゃん、久しぶりだねえ」
「お久しぶりです。友達が来たとき案内するかもしれないので、パンフレットもらっていいですか」
「どうぞどうぞ。たくさん持っていって」
千早がパンフレットを数枚取った。表紙には「義経伝説の里・神凪町」と印刷されている。義経と弁慶のイラスト。観光地としての売り文句。
「深山さん。義経って、このへんを通ったんですか」
「伝承では、衣川の合戦の後に北方へ逃れたとされています。その途中でこの地域を通ったという言い伝えがあります」
「衣川の後に? 教科書では衣川で死んだことになってますけど」
「教科書はそうですね。だが東北には義経生存伝説が各地にあります。北海道まで逃れたという説もある」
千早がパンフレットを開いた。義経一行の逃避行ルートの地図が載っている。点線が東北を北上している。その途中に、神凪町が赤い丸で示されていた。
「義経の家来に常陸坊海尊っていう人がいたんですよね。不死身だったっていう伝説がある」
渡の手が、パンフレットの端を持ったまま止まった。
常陸坊海尊。武蔵坊弁慶と並ぶ義経の家来として語られる人物。衣川の合戦で姿を消し、その後数百年にわたって各地で目撃されたとされる。不死身の男。永遠に死なない修験者。
渡の足跡が、この時代の伝承と混線している。渡自身は義経の家来ではなかった。だが同時代に同じ地域を歩き、同じような場所で目撃された。後世の語り部が整理する過程で、渡の痕跡が常陸坊海尊の物語に吸収された。
「伝説ですよ」
「でもこのパンフレットに書いてある。常陸坊海尊がこの町に立ち寄って、山中の寺に数日滞在したって」
「常光寺の縁起にそういう記述があります。ただし後世の加筆の可能性が高い」
「後世って?」
「江戸期の寺社縁起は、箔をつけるために有名人の逸話を付け足すことがよくありました。義経や弁慶の立ち寄り伝説は東北のどの町にもあります」
渡は自分が話しすぎていることに気づいた。縁起の加筆事情は、民俗学を専門にしている研究者なら知っている知識だ。だが管理人が知っている知識ではない。
千早が渡を見ていた。
「深山さん、詳しいですね」
「……本で読みました」
「どの本ですか?」
「蔵にあった資料です。管理の参考に」
千早は頷いた。頷いたが、目は納得していなかった。いつもの目だ。飲み込んで、消化せずに、ノートに書き留める目。
案内所を出た。商店街を歩いて、川沿いの道に出た。御影川という小さな川で、橋が三つかかっている。一番古い橋は石造りで、欄干に苔が生えている。
「この橋、古いですね」
「大正に架けられました。その前は木橋でした」
また出た。渡は木橋のことを言うべきではなかった。大正以前の橋の情報は、管理人が四十年前に来てから知りうるものではない。
「木橋って、見たんですか」
「いえ。写真が残っています」
「どこに?」
「……町の郷土資料館に」
千早は黙って橋を渡った。欄干に手を置いて、川面を見下ろした。
「深山さん」
「はい」
「この町のこと、おじいちゃんより詳しいですよね」
「そんなことは」
「おじいちゃんは七十八年この町に住んでます。深山さんは四十年。でも深山さんのほうが、この町の古いことを知っている。橋の前身が木橋だったこととか、寺の縁起の加筆のこととか」
渡は川面を見た。水が光を反射している。この川の流れは変わらない。千年前と同じ場所を同じ方向に流れている。川底の石の配置は変わった。堤防ができた。橋が架かった。だが水の流れは同じだ。
「勉強家なんです」
「嘘ですよね」
千早の声は穏やかだった。責めてはいない。ただ事実を確認している。
「嘘ではありませんが、全部は話していません」
「知ってます」
二人は橋の上に立って、しばらく川を見ていた。水音が足元から聞こえている。
「深山さん。いつか全部話してくれますか」
「いつか、は約束できません」
「じゃあ、聞きません。でも、嘘はつかないでほしい。話せないなら『話せない』と言ってください。嘘より、沈黙のほうがましです」
渡は千早を見た。十八歳の横顔。川面の光が頬に反射している。
「……心得ました」
言ってから気づいた。また古い言い回しが出た。だが今回は、千早が笑った。
「その言い方、好きですよ。時代劇みたいで」
渡も笑った。千年ぶりに、笑い方を忘れていなかったことに少し驚いた。