小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第12話「朝の結び」

2,133文字 約5分

線香の匂いで目が覚めた。

 自分が焚いたものではない。管理棟の二階に線香立てはない。匂いは窓の外から来ていた。常光寺の方角。玄海が朝のお勤めで焚いた線香の残り香が、五月の朝の空気に乗って流れてきたのだろう。

 この匂いが管理棟まで届くのは、風向きが南西のときだけだ。年に十日ほど。渡はその十日を四十年分覚えている。前の名前で暮らしていた土地では、似た匂いが毎朝届いていた。あの頃は寺男だったから、線香を焚くのは渡自身の仕事だった。

 布団を畳み、顔を洗い、飯を炊いた。

 朝の結界点検。管理棟を出て、まず蔵の核に手を触れる。温度。外気より二度低い。正常。

 だが今朝は、正常の中に微かな違和感があった。

 核の振動が、わずかに残っている。昨日の振動ではない。もっと新しい。数時間以内に、誰かが蔵の結界に触れた痕跡。

 渡は蔵の扉を確認した。南京錠は無事。蝶番も異常なし。侵入者ではない。

 結界に触れた痕跡は、外側からではなく内側からだった。蔵の中で、誰かが封印の札に触れた。

 千早だ。

 渡は蔵の前に立って、しばらく動かなかった。朝の境内は静かだ。鳥が鳴いている。杉の枝を風が揺らしている。普通の朝。千年分の普通の朝のうちの一日。

 千早が封印に触れた。触れて、何を感じたのか。何が見えたのか。

 渡は石段の掃除に向かった。箒を手に取り、八十六段を上から掃き始めた。三段目の欠けた角に杉の葉が溜まっている。いつもと同じだ。

 手を動かしながら考えた。

 千早に何かが起きている。結界が彼女に反応し、封印が彼女の接触に振動する。千早の中にある何かが、この場所の封印と共鳴している。

 渡はこの種の共鳴を過去に見たことがある。一度だけ。

 飛鳥の時代、役小角の修行圏にいた頃のことだ。渡がまだ名もない行者見習いだった頃、修行圏に一人の少女がいた。霊的感受性が高く、封印に触れると向こう側が見える体質だった。渡はその少女を守ろうとした。守ろうとして、力を封じようとした。封じようとした判断そのものが——。

 渡は箒の手を止めた。

 記憶を遮断した。この記憶は千年の間に何度も浮かび上がってきて、そのたびに渡は手仕事で押さえ込んできた。箒を動かす。糊を塗る。紙を貼る。手が動いていれば、記憶は沈む。

 箒を動かした。杉の葉が段の隅から落ちた。

 午前の残り。蔵の結界を再調整した。千早の痕跡を消す作業だ。結界の核に手を当て、振動の残りを吸い取る。指先が少し痺れる。代償はいつもこの程度だ。千年の間に体が慣れている。

 昼食。握り飯を二つ。梅干しと昆布。境内のベンチで一人で食べた。ベンチの木が古くなっている。十五年前に渡が据えたベンチだ。木材は地元の山で倒れた楢の木を使った。そろそろ防腐処理をやり直す必要がある。

 午後。古文書の修復。室町期の写経の裏打ちを続けた。楮紙と正麩糊。刷毛の先を水で湿らせ、紙の繊維に沿って糊を伸ばす。渡の手はこの動きを千年覚えている。糊の粘度、紙の吸い込み、刷毛の角度。どれも教科書には書いていない。体で覚えるしかない所作だ。

 手を動かしていると、思考が静まる。修復の作業は渡にとって瞑想に近い。紙と向き合い、紙の呼吸に合わせて手を動かす。紙が何を望んでいるかを、指先で聞く。

 この経巻を最初に修復したのは、前の前の名前のときだった。享保の頃。虫に食われた端を切り、新しい紙で継いだ。継ぎ目は今でも残っている。渡の手で継いだ部分だけが、三百年経っても紙の色が少し違う。

 夕方。常光寺に寄った。玄海が庫裡の縁側にいた。茶を飲んだ。

「渡さん。最近、千早ちゃんがうちに来たんだよ」

「聞きました」

「夜の読経のことを聞いてきた。あの子、聞こえたらしいね」

「住職は何と答えましたか」

「仏間の空気が変わることは伝えた。嘘をつく理由がないからね」

 渡は茶を飲んだ。玄海の茶は濃い。渡の好みよりも苦い。

「渡さん。あの子に話したほうがいいんじゃないかね」

「何をですか」

「あの子の中にあるもの。あんたが感じてるはずだろう」

 玄海は渡の正体を知らない。だが四十年の付き合いで、渡が「ただの管理人ではない」ことは察している。察したうえで、聞かない。聞かないが、必要なときには口を出す。

「まだ早いと思います」

「あんたがそう言うなら、わしは待つよ。だがね、渡さん」

「はい」

「あの子は待たないよ。自分で動く子だ」

 渡は茶を飲み干した。

 管理棟に戻った。夜の封印確認。蔵の核に手を触れた。温度。正常。千早の痕跡は完全に消えている。渡が朝に消した。

 消したが、千早の中に残った記憶は消せない。千早が封印に触れたとき、何を感じたか。渡にはそれが分からない。分からないことが不安だった。

 布団に入った。天井の節を見つめた。

 玄海の言葉が残っている。「あの子は待たないよ」。

 分かっている。千早は待たない。千早は動く。渡が隠せば隠すほど、千早は自分で確かめようとする。それは千早の性格であり、同時に、千早の中にある何かの性質でもあるかもしれない。

 渡は目を閉じた。

 線香の匂いはもう消えていた。五月の夜。虫の声が遠くから聞こえる。

 明日も同じ仕事がある。結界を点検し、石段を掃き、紙を直し、封印を確かめる。千年の間に身についた、変わらないルーティン。

 変わらないはずだった。千早が戻ってくるまでは。