小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第11話「札の熱」

2,147文字 約5分

蔵の中は白檀と楮紙の匂いが混じり合っていて、外の五月の空気とは全く別の季節に属しているように千早には感じられた。

 昼過ぎ。渡が裏山の見回りに出ている間に、千早は一人で蔵に入った。南京錠の鍵は社務所の事務机の二段目にある。祖父に聞くまでもない。子どもの頃に場所を覚えていた。

 蔵の中に立つと、紙と墨の匂いが頭上から降りてくるような感覚がある。天井が低いせいだろうか。棚に並んだ古文書と経巻が、空気そのものに重さを与えている。

 千早は棚の間を歩いて、蔵の最奥部に向かった。

 封印の札が貼られた棚。白い和紙に墨の文字。注連縄。ここに来るのは三度目だ。一度目は蔵の虫干しのとき。渡に「触るな」と言われた。二度目は雨の日に帳簿を調べたとき。筆跡に気づいた。

 三度目の今日は、一人だ。

 札の前に立った。文字を読もうとした。古い書体で、意味は分からない。漢字のようでもあり、梵字のようでもあり、どちらとも言えない文字が縦に並んでいる。

 手を伸ばした。

 触れるつもりはなかった。近づけるだけだった。札の表面がどんな質感なのか、紙の厚みを見たかっただけだ。

 指先が札から三センチの距離に達したとき、熱を感じた。

 指の腹が温かくなった。日差しの温もりではない。もっと内側から来る熱。骨の中を通るような、深い場所からの熱。

 驚いて手を引こうとしたが、引けなかった。引けない、というのは正確ではない。引こうと思えば引ける。だが指が、もう少しだけ近づきたがっている。自分の意志ではなく、指先そのものが。

 札に触れた。

 紙の表面は冷たかった。外気より冷たい。だが指先の内側は熱い。冷たさと熱さが同時にあった。矛盾した感覚。

 そして、見えた。

 視覚ではなかった。目の前の風景は変わっていない。蔵の中、棚、札、注連縄。何も変わっていない。だが指先が触れている札の向こう側に、何かの輪郭があった。

 光ではない。影でもない。存在の輪郭としか言いようのないもの。大きさの概念が合わない。小さいとも大きいとも言えない。ただ、そこにある。札の向こう側に、封じられたまま、在る。

 古い。

 千早にはそれだけが分かった。途方もなく古いものが、この札の向こう側にある。千年か、それ以上か。時間の厚みが指先から伝わってきた。味噌汁の味の違いが分かるように、この古さの味が指先に染みてきた。

 怖くはなかった。

 不思議なことに、怖くなかった。古いものは怖くない。古いものは、ただ古い。怖いのは、この感覚が自分に備わっていたという事実のほうだった。

 千早は手を引いた。今度は引けた。

 指先が冷たかった。札に触れていた部分だけが冷えている。残りの指は温かい。境界がはっきりしている。

 蔵の中に立って、息を整えた。心臓が少し速く打っている。怖くないと思ったのに、体は反応している。

 渡に言うべきだろうか。

 言えば、渡は「近づくな」と言うだろう。確実に。渡はそういう人だ。何かを守ろうとして、情報を隠す。距離を取らせる。それが渡のやり方で、千早はそれを九つの事実を通じて理解し始めている。

 言わなければ。

 言わなければ、自分で確かめるしかない。この感覚が何なのか。なぜ自分に備わっているのか。封印の向こう側にある古いものが何なのか。

 千早は蔵を出た。南京錠をかけ直した。鍵を事務机に戻した。

 社務所の縁側に座って、自分の指先を見つめた。右手の人差し指と中指。札に触れた二本の指。見た目には何も変わっていない。冷たさも消えている。

 だが、何かが残っている。感覚の記憶。札の向こう側に在ったものの輪郭が、指先にまだ残っている。目を閉じると思い出せる。古くて、深くて、静かなもの。

 午後三時。渡が裏山から戻ってきた。石段を降りてくる足音が聞こえた。渡の足音は軽い。体重を感じさせない歩き方をする。

「千早さん。社務所にいたんですか」

「ちょっと休憩してました」

 嘘ではない。休憩はしている。蔵に入ったことは言わなかった。

 渡が台所で水を飲んでいる音がした。コップを置く音。手を洗う音。

「深山さん」

「はい」

「あの蔵の奥の棚って、何が入ってるんですか」

 渡の手が蛇口の上で止まった。水が流れ続けている。三秒。蛇口を閉めた。

「古い器物です。壊れやすいものなので、特別な管理をしています」

「古い器物って、具体的には」

「経巻の原本や、神具の一部です」

「神具」

「ええ。この神社の創建に関わるものです」

 渡は嘘をついているのか。嘘ではないのかもしれない。経巻や神具は入っているだろう。だが千早が感じた「存在の輪郭」は、経巻や神具の気配ではなかった。もっと根源的な何かだった。

 千早は追及しなかった。渡に聞いても核心は出てこない。それは九つ目の事実として、もう分かっていることだった。

 自室に戻り、ノートを開いた。七つの事実の下に、二つ書き加えた。

 八、蔵の封印の札に触れると、指先が熱くなり、札の向こう側に何かの輪郭が見える。古いもの。千年以上。

 九、この感覚は怖くない。だが、なぜ自分にあるのかが分からない。

 千早はペンを置いて、窓の外を見た。管理棟の屋根が見えている。渡はまだ中にいるだろう。手を動かしているだろう。

 渡に言わなかった。渡が隠すなら、千早も隠す。対等だ。

 対等と呼ぶには少し卑怯かもしれないが、千早は今のところ、それ以外の方法を思いつかなかった。