小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第10話「闇の声」

2,887文字 約6分

午前二時に目が覚めたのは、声のせいだった。

 最初は夢の続きだと思った。東京のアパートで見る夢と、実家の布団で見る夢は質が違う。東京の夢は断片的で、電車の中にいたり、知らないビルを歩いていたりする。実家の夢は長い。山の中を歩いている夢が多い。知らない山道を、誰かの後ろについて登っている。後ろ姿は見えるのに、顔が見えない。振り返ってくれない。

 目を開けた。天井。木の板。実家の二階の自室。布団の中。窓の外は暗い。

 声が聞こえていた。

 低い声。一定の律動。上がっては下がり、下がっては上がる。抑揚があるが感情はない。祈りの声だ。読経。

 千早は布団の中で息を止めた。耳を澄ませた。

 常光寺の方角から聞こえている。神凪神社から常光寺までは歩いて五分。千早の部屋の窓は南西を向いていて、常光寺の屋根が木立の向こうに少しだけ見える。

 午前二時に読経をする住職はいない。玄海和尚は七十三歳で、夜は九時に寝る。千早が子どもの頃から、そうだった。

 声は続いていた。漢文の経典を読む声。般若心経ではない。千早は祖父から般若心経の読み方を教わったことがある。リズムが違う。もっと古い。もっと深い。言葉の一つひとつが重く、空気に染みていくような声。

 窓を開けた。五月の夜気が頬に触れた。冷たい。山の夜は夏でも冷える。

 声が大きくなった。窓を開けたことで、障子と硝子一枚分の遮蔽がなくなった。

 聞こえる。確かに聞こえる。

 千早は布団から出た。パジャマの上にカーディガンを羽織り、階段を降りた。玄関で靴を履いた。

 外に出た。境内は暗い。月明かりが薄い。石段の上に社殿の影がある。

 声の方角に歩いた。社務所の横を通り、裏手の小道を抜けて、常光寺の山門に向かう。

 山門の前で立ち止まった。声はこの中から聞こえている。本堂の方角。

 だが山門を越えたとき、声が止んだ。

 ぴたりと。切られたように。

 千早は暗闇の中で立ちすくんだ。耳を澄ませた。風の音。虫の音。遠くで沢の水が流れる音。

 読経は聞こえなかった。

 気のせいだったのか。

 気のせいではない。起き上がって、カーディガンを羽織って、靴を履いて、ここまで歩いてきた。気のせいで人はここまでしない。

 千早は山門をくぐり、本堂に近づいた。本堂の扉は閉まっている。鍵がかかっている。窓も閉まっている。

 建物に耳を近づけた。何も聞こえない。

 帰った。実家に戻り、布団に入った。眠れなかった。午前二時から朝の六時まで、天井を見つめていた。

 朝食の席で祖父に聞いた。

「おじいちゃん。昨日の夜、読経の声聞こえなかった?」

「読経? どこでだ」

「常光寺のほうから。午前二時くらい」

 祖父が箸を止めた。

「聞こえんかったな。わしは寝ていた」

「お母さんは?」

 母が台所から顔を出した。

「何も聞こえなかったけど。夢じゃないの?」

 夢ではない。千早はそう確信していたが、証拠がなかった。

 朝食後、深山渡の管理棟を訪ねた。渡は石段の掃除を終えて、箒を片付けているところだった。

「深山さん。昨夜、読経の声が聞こえたんですけど」

 渡の手が箒の柄の上で止まった。一拍。それから動き出した。

「読経ですか」

「常光寺の方角から。午前二時くらいに」

「風の音ではないですか。山の夜は風が谷を抜ける音がして、ときどき人の声に聞こえることがあります」

「風じゃないです。読経です。お経を読んでいる声。抑揚がありました」

 渡が千早を見た。穏やかな目。だがその奥で、何かが動いている。いつもの計算だ。何を話し、何を話さないか。

「常光寺の住職に聞いてみましょうか」

「自分で聞きに行きます」

 千早は管理棟を出て、常光寺に向かった。

 山門をくぐった。昨夜とは違い、朝の光が本堂を照らしている。瓦屋根に苔が生えている。参道の砂利が朝露に濡れて光っていた。

 玄海和尚が庫裡の縁側で茶を飲んでいた。白い作務衣。痩せた体。目の下にくまがある。

「和尚さん。おはようございます」

「おお、千早ちゃん。久しぶりだなあ。大きくなって」

「去年の春以来です。少し聞きたいことがあるんですけど」

「何でも聞きなさい」

「昨夜、このお寺で読経の声が聞こえたんです。午前二時頃。和尚さんがされてたんですか」

 玄海の顔が変わった。穏やかな笑みが消えた。消えたのは一瞬で、すぐに戻ったが、千早は見逃さなかった。

「わしは寝ていたよ。午前二時には」

「じゃあ、誰が」

「千早ちゃん。わしも気づいていたことがある」

 玄海が茶を置いた。千早を見た。

「最近、夜になると仏間の空気が変わるんだ」

「変わる?」

「温度が下がる。冬のように冷える。それと、線香を焚いていないのに、線香の匂いがする。古い線香の匂いだ。今の線香じゃない。もっと古い、白檀の濃い匂い」

 白檀。渡が蔵で防虫に使っている香と同じ匂いだ。

「いつからですか」

「ひと月ほど前から。春の彼岸を過ぎたあたりからだな」

 千早が帰省した時期と重なる。偶然だろうか。

「怖くないんですか、和尚さん」

 玄海が微笑んだ。穏やかな笑み。

「寺は仏様のおわす場所だからね。仏間の空気が変わるくらいで怖がっていたら、住職は務まらんよ。ただ」

「ただ?」

「渡さんには伝えてある。あの人なら、何か分かるかもしれんと思ってね」

 渡は知っていた。知っていて、千早には「風の音」と答えた。

 千早は常光寺を出て、境内に戻った。管理棟の前を通った。窓から渡の姿が見えた。古文書の修復をしているらしい。刷毛を持って、紙に向かっている。

 千早は立ち止まった。

 渡は知っている。読経の声のことも、仏間の空気が変わっていることも。知っていて黙っている。「隠さないで」と言ったのに。

 だが千早は管理棟のドアを叩かなかった。代わりに、自分の部屋に戻った。机に向かった。ノートを開いた。

 大学で使っているA5のリングノート。千早はそこに書き始めた。

 「深山渡について分かっていること」

 一、管理人。四十年前からこの神社にいる。外見は三十歳前後。

 二、蔵の中身に異常に詳しい。管理人の範囲を超えている。

 三、百年以上前の帳簿と、蔵の封印の札に同じ筆跡がある。渡は「前任の字」と言った。

 四、旧参道の石段の修復について、年代を知っている。「大正末期の豪雨」と即答した。

 五、急須の漆を自分で直した。漆の扱いに長けている。

 六、蔵への侵入者があったことを私に隠そうとした。追及して初めて認めた。

 七、夜の読経について知っていたが、「風の音」と答えた。常光寺の住職には伝えていた。

 千早はペンを止めた。七つの事実を並べて読み返した。

 一つひとつは小さな違和感だ。だが七つ並べると、輪郭が見えてくる。

 深山渡は、ただの管理人ではない。

 千早はノートを閉じた。窓の外を見た。境内の向こうに管理棟の屋根が見えている。渡はまだ中にいるだろう。古文書を修復しているだろう。手を動かしている渡は穏やかだ。穏やかで、優しくて、丁寧で、嘘をつく。

 嘘を暴きたいわけではない。千早は知りたいだけだ。この神社に何があるのか。蔵の奥に何が封じられているのか。渡が何を守っているのか。

 それを知ることが、自分にとって何を意味するのかは、まだ分からない。

 窓の外で、山桜の最後の花弁が風に飛ばされた。五月の風。初夏が近い。