小説置き場
封の座を継ぐ者 神楽坂連

第1話「朝の石段」

3,000文字 約6分

四月の朝は杉の樹液が温まる匂いで始まる。

 夜の冷気がまだ石段の低いところに溜まっていて、その上を朝日が舐めるように這いのぼっていく。苔が夜露を含んで光り、踏むとじわりと水気が靴底に滲む。境内の匂いは季節と時刻で全く違うものになるのだが、四月の、この時間帯の、杉の樹液と苔の水気と古い石の温もりが混じった空気は、一年のうちで渡がいちばん好きなものだった。

 深山渡は箒を手に取り、石段の上から掃き始めた。

 神凪神社の本殿へ至る石段は八十六段あり、途中に踊り場が二つある。三段目の左端が少し欠けている。享保の大地震のときに割れた石の、替えが見つからないまま残った名残りで、もう三百年になる。四十七段目は明治の半ばに入れ替えた。前のものは山から転がってきた杉の根に持ち上げられて、冬のうちに真ん中から裂けてしまった。あの冬は雪が深く、気づいたときにはもう遅かった。

 渡は石段の来歴をすべて覚えている。覚えているが、それを口にすることはない。管理人の仕事は管理することであって、記憶を披露することではない。

 箒を動かすと、杉の葉が段の隅から剥がれてさらさらと落ちた。三月の杉の葉はまだ重く湿っているが、四月に入ると乾いて軽くなる。毎年同じことだ。何百回も同じ変化を見てきた。

 八十六段を掃き終えると、渡は石段の下まで降りて境内を見上げた。社殿の屋根に朝日が当たっている。昭和四十年の修繕で銅板葺きに替えたが、それ以前は檜皮だった。檜皮のほうがこの社殿の規模には合っていたと思う。だが檜皮の葺き替えには数百万かかり、当時の宮守家にはその余裕がなかった。渡が個人で出すわけにもいかない。管理人が社殿の修繕費を全額負担すれば、怪しまれる。怪しまれることは、この暮らしを続けるうえで最も避けなければならないことだった。

 社務所の裏手にある管理棟に戻り、二階の居室で朝食をとった。飯を炊き、味噌汁を作り、漬物を出す。味噌は常光寺の住職が毎年仕込む手前味噌で、今年のものは去年より少し塩気が強い。大豆の出来か、麹の配合を変えたか。住職に聞けば分かるが、聞くまでもない。味噌の微かな違いに気づいてしまうのは、長く生きていることの余計な副産物のようなものだった。

 食器を洗って伏せ、九時に蔵へ向かった。

 神凪神社の蔵は境内の東側に建つ土蔵造りで、白壁に分厚い漆喰の扉がついている。鍵は物理的な南京錠と、もうひとつ、扉の横の柱に仕込んだ結界の核。渡が柱に指先で触れると、木の内側から微かな熱が返ってきた。正常。結界は保たれている。

 鍵を開けて蔵に入ると、紙と墨と古い木の匂いが渡を包んだ。百年分の紙と三百年分の墨が溶け合った、この蔵だけの匂い。経巻の裏打ちに使った楮紙が乾くときの甘さは、いつの時代に嗅いでも変わらない。

 四月は虫干しの季節にあたる。渡は棚から一巻ずつ古文書を取り出し、紙の状態を確かめていった。室町期の写経。虫食いはない。三年前に渡自身が防虫の処置を施しており、白檀と樟脳を配合した香を焚いて紙の繊維に浸透させてある。手順書はどこにも残っていない。千年の間に体が覚えた所作だ。

 江戸中期の奉納帳を開くと、宮守家の歴代の名が墨書きで並んでいた。達筆もあれば、判読に苦労する悪筆もある。渡はこの帳面を開くのが好きだった。人の名前が残っている。生まれて、暮らして、祈って、やがて帳面の中だけの存在になった人々の名前が、紙の上にまだ息づいている。

 何人を見送ったか、もう数えていない。

 蔵の最奥に、封印の札が貼られた棚がある。渡は札に手を近づけたが、触れはしなかった。掌で温度を測る。外気より二度低い。これが正常値であり、一度でも温度が上がれば中のものが揺らいでいることを意味する。

 今朝も正常だった。

 蔵を出て施錠し、十時から裏山の見回りに入った。管理棟の裏から杉林を抜け、沢を渡り、尾根筋に出る。片道三十分。獣道の状態を確かめ、倒木がないかを見て、沢の水量の変化を記憶に刻む。

 尾根沿いに石仏が三体並んでいる。地衣に覆われ、一体は首が欠けている。だが並び方は変わっていない。この石仏を据えたのは鎌倉の頃で、当時はまだ修験の行者がこの山を踏んでいた。渡がこの尾根に初めて立ったのは、もう少し前のことになる。

 尾根から神凪町を見下ろした。山に抱かれた小さな町で、瓦屋根と田んぼと畑と川と、一本の商店街が見える。銭湯の煙突から薄い煙が上がっていた。まだ営業しているのだ、あの銭湯は。

 四十年前、この尾根から数えられる屋根はもっと多かった。八十年前はさらに多く、百年遡ればなお。人が減り、家が潰れ、祈る者が少なくなるたびに、土地に染みた力がほんの少しずつ薄れていく。封印の維持に必要な信仰の密度が下がっていく。

 渡は風に吹かれながらしばらく町を見ていた。杉の匂いを含んだ四月の風。同じ場所に立って同じ方向を眺めているのに、風景は少しずつ欠けていく。変わらないのは山の稜線と、この身だけだ。

 管理棟に戻り、握り飯を二つ作って境内のベンチで昼食をとった。桜が散りかけていて、花弁が石段の三段目の欠けた角に溜まっている。明日掃けばいい。

 午後は古文書の修復に充てた。剥がれかけた経巻の裏打ちを、薄い美濃紙と正麩糊で補修する。刷毛に糊を含ませ、紙の繊維の目に沿って撫でるようにのばしていく。この所作は壊れかけたものを完全に直すのではなく、もう少しだけ持たせるための技術だ。封印も結界も蔵も建物も、渡の仕事はすべてこれに尽きる。完全な修復はできない。ただ、もう少しだけ。

 千年、そうしてきた。

 夕方、常光寺に寄って住職の玄海と茶を飲んだ。七十三歳、痩せた体躯に低い声、冗談のセンスだけが四十年間まるで上達しない男で、渡がこの町に「深山渡」という名で住み着いてからずっと顔を合わせている相手だった。

「渡さん。宮守さんとこの娘さん、帰ってくるそうだよ」

「千早さんですか」

「うん。大学が何とかの休みでね。しばらく実家にいるらしい」

 宮守千早。宮守家の長女。去年の春に東京の大学に進学して実家を出た。小さい頃から境内を走り回っていた子で、古文書を読んでみたいと言って蔵に入りたがり、祖父の宮司に叱られては頬を膨らませていた。

 千早の近くにいると、蔵の結界が微かに反応する。渡にはそれが感じられた。感じていて、誰にも言わなかった。

 言えば、巻き込む。巻き込めば、守らなければならなくなる。守ろうとすれば。

 渡の手が、湯呑みの上で止まっていた。

「渡さん?」

「すみません。ぼんやりしてました」

「最近多いね、ぼんやり。歳かな」

 住職が笑った。渡も笑い返した。歳は確かに取っている。取りすぎている。

 管理棟に戻ると、夕日が社殿の銅板の屋根を朱に染めていた。檜皮だった頃の屋根を、渡は今でもときどき思い出す。あの頃の夕暮れは、もう少し柔らかい色をしていた。

 夜、蔵の最終確認を済ませて布団に入った。管理棟の天井は板張りで、節が三つある。四十年前にこの部屋に入ったときから、同じ天井を見ている。前の名前で暮らしていた土地にも、その前の名前の土地にも、寝る前に見上げる天井があった。どの天井も覚えている。

 千早が帰ってくる。

 蔵の中で経巻に触れたがっていた、あの少女が。

 渡は目を閉じた。明日も同じ朝が来る。同じ匂いの境内を掃き、同じ手順で蔵を点検し、同じ温度の封印を確かめる。

 同じであるはずの明日が、少しだけ心許なかった。