小説置き場

第9話「異常傷病経過観察」

2,937文字 約6分

朝の六時に目が覚めると、ベランダの鉢植えのコスモスが三輪咲いていた。十月に入って最初の花だった。沢渡瑠璃はパジャマのまましゃがみ込み、薄桃色の花弁に指先を近づけて、触れずに戻した。触れると散るかもしれない。散らないかもしれない。でも、散るかもしれないなら触れないでおこう——と、いつも思う。

 翼医療グループ特殊傷病棟に勤めて九年。沢渡が看ているのは、怪異接触後に傷を負った患者たちだった。怪異に触れた人間の傷は、通常の外傷とまるで性質が違う。縫合しても夜のうちに糸が弾ける。消毒液に反応する菌が検出されない。出血が止まっても、傷口そのものが呼吸するように変化し続ける。

 治療法が見つかるまで状態を維持し、記録し、見守る。それが沢渡の仕事だった。治療法が見つかることは、ほとんどない。それでも見守る。見守ることが仕事なのだから。

 七時にシャワーを浴びて髪を束ね、朝食にトーストとゆで卵を食べた。食器を洗いながら、今日の巡回の段取りを頭の中で組み立てる。三〇五号室の前田さん、四十七歳男性、二ヶ月前に都内の公園で怪異に接触、左腕の裂傷は深さ三センチ、長さ十五センチ、縫合四回、四回とも翌朝には糸が切れている。

 家を出る前に、いつもの花屋に寄る。駅前の小さな店で、店主の高齢の女性は沢渡が毎朝一輪だけ買っていくことをもう何年も不思議に思っていない。水曜はガーベラ。金曜はカーネーション。月曜はかすみ草。木曜はコスモス。今日は木曜だった。

 特殊傷病棟の患者には面会者が少ない。家族にも「原因不明の感染症で隔離中」としか説明できず、見舞いの花を持ってくる人がいない。だから沢渡が一輪だけ持っていく。

 花があるだけで、病室は病室でなくなる。沢渡はそう信じていた。信じているというより、そうであってほしいと思っていた。九年間、治せない患者を看てきた人間にできることは、花を替えることくらいだ。

 八時。三〇五号室。ノックして入ると、前田さんはベッドの上で天井を見ていた。

「おはようございます、前田さん。お花替えますね」

「ああ。今日は何の花だい」

「コスモスです。十月ですから」

 花瓶の水を替え、昨日のガーベラを抜いてコスモスを挿した。薄桃色。朝、ベランダで見たのと同じ色だな、と沢渡は思った。

 検温。三十六度八分。血圧、百二十の七十八。どちらも正常範囲。次は傷口の観察だった。

 包帯を丁寧にほどいていく。左腕。傷の状態を確認する瞬間は、九年経っても緊張する。何が起きていても冷静でいなければならないが、何が起きるか分からないから緊張する。

 沢渡の指が止まった。

 傷口から何かが生えていた。白い。細い。柔らかい。植物の茎だった。傷の裂け目から一本の白い茎がまっすぐに伸び、先端に小さな蕾をつけている。まだ開いていない。

 沢渡は息を整えてからカメラを手に取った。五枚、角度を変えて撮影する。九年間で見てきたものは多い。傷口から虫が這い出した患者、傷そのものが文字を書き始めた患者、傷口が声を発した患者。花が生えるのは初めてだったが、驚きよりも先に観察が動く体になっていた。

「前田さん、痛みはありますか」

「ないよ。何かあったかい」

「少し変化があります。担当の先生に報告しますね」

 声は穏やかに保てた。内心では茎の白さが気になっていた。あの白さは、どこかで見た色だ。記憶の底を探ったが掴めなかった。

 担当医は写真を見て三秒沈黙した。「花の種類は分かるか」「蕾なのでまだ。開けば」「開かせていいのか」「前例がありません」。結論は保留。経過観察。いつもそうだ。

 午後、三〇五号室に戻ると蕾が開いていた。五枚の花弁、白、中心に黄色いおしべ。コスモスだった。今朝沢渡が持ってきたのと同じ形、同じ大きさ。色だけが違う。花瓶のは薄桃色。傷口のは白。

 翌朝、金曜日。カーネーションを買って病室に入った。傷口に二本目の茎。赤い蕾が午後に開いた。カーネーションだった。沢渡が持ってくる花を、傷口が模倣している。

 土曜日、実験のつもりで花を持っていかなかった。新しい茎は生えなかった。月曜日にかすみ草を持っていくと、火曜の朝には傷口にかすみ草が咲いていた。

 担当医との会議では結論が出なかった。沢渡は看護を続けた。毎朝花を持っていき、傷口にはその花が咲いた。抜こうとはしない。マニュアルに「傷口の変化物に触れないこと」と明記されている。

 前田さんは穏やかだった。左腕から花が咲いていることを、最初は怖がった。三日目には慣れた。一週間後には「今日は何が咲いたかな」と沢渡に訊くようになった。

 沢渡はその問いが好きだった。患者が自分の体の異変に興味を持てるということは、まだ心が折れていないということだ。

 二週間後の朝、沢渡は自宅のベッドで目を覚まし、右手の甲に違和感を覚えた。

 白い茎が一本、生えていた。先端に蕾。傷はない。怪異に触れた覚えもない。だが皮膚を突き破って、細い茎がまっすぐ伸びている。蕾が開いた。白いコスモス。三〇五号室の傷口に最初に咲いたのと同じ花だった。

 沢渡は台所で水を一杯飲んだ。手が震えていた。それから深呼吸をして、病院に電話した。

「特殊傷病棟の沢渡です。右手に、三〇五号室と同じ症状が出ました。自宅待機の判断をお願いします」

 電話口で後輩の看護師が息を呑んだ。「すぐ来てください。隔離室を用意します」

「分かりました。あと——今日の前田さんの花、お願いできますか。木曜だからコスモスです。花屋の場所は」

「沢渡さん、自分のことを」

「花屋は駅前の——ええと、名前がないんです。おばあさんが一人でやっている店。コスモスって言えば分かります」

 身支度をしながら、沢渡は自分の右手を見つめた。茎は痛みもなく、そこにあった。病院に着くまでに左手からも一本生えた。

 隔離室。検査。血液は正常。CTでは茎の根が骨に達していた。

 三日目、両腕に七本。四日目、肩にも。五日目、首筋にも。花が咲くたびに沢渡の体温は少しずつ下がった。三十五度、三十四度、三十三度。体温が植物のそれに近づいていく。

 六日目の夕方、沢渡は天井を見ながら思った。ベランダの鉢植えに水をやっていないことが気がかりだった。あのコスモスは今朝も咲いただろうか。誰もいない部屋で、誰にも見られずに。

 七日目の朝。ベッドの上に沢渡の形をした花畑があった。白いコスモスが体の輪郭に沿って咲き、薄桃色のガーベラが胸のあたりを覆い、赤いカーネーションが指先から伸びていた。心拍モニターは平坦な線を描いていた。

 三〇五号室では前田さんの傷口から花が消えていた。傷は塞がり、翌週には退院の許可が出た。退院の日、前田さんは受付で看護師に尋ねた。「沢渡さんにお礼を言いたいんですが」。看護師は少し間を置いてから、「異動になりました」と答えた。

 殉職報告書 第9号  氏名:沢渡瑠璃(33)  所属:翼医療グループ特殊傷病棟  死因:怪異性傷病の伝染による生体変容(植物化)  備考:遺体は全身が植物体に変容。焼却処分。担当患者(前田)は     症状消失し退院。因果関係は不明だが、時系列の一致から     「転移」の可能性が指摘されている。     沢渡が毎朝患者に届けていた花の習慣は、後任の看護師に     引き継がれた。花屋の場所もメモに残されていた。     駅前の、名前のない花屋だという