金曜日の夜が来るたびに、野口健二は少しだけ嬉しくなる。作業着に着替え、安全靴の紐を結び直すとき、指先に小さな高揚がある。終電が過ぎた後の地下鉄の線路に降り立つ瞬間が好きだからだ。
三葉トランジット保線部に勤めて二十二年、中央線地下区間の軌道保守を担当してきた。毎週火曜と金曜の深夜、終電後から始発前までの四時間が作業時間になる。
日中は何万人もの乗客と何百本もの列車が駆け抜けるこの空間が、午前一時を過ぎると野口だけのものになる。電車の振動が消え、排気ファンの低い唸りだけが残り、レールが冷えていく音が聞こえるようになる。
誰もいない線路に立って懐中電灯を灯すと、まるで世界の裏側に一人で降りてきたような気分になった。コンクリートの壁に染みついた油の匂い、レールの継ぎ目に溜まった埃の色、天井を走るケーブルの配列——そのすべてが、野口にとっては日中のオフィスよりもよほど馴染み深い風景だった。
今夜もまた金曜日の午前一時。野口はヘルメットを被り、安全帯を締め、ハンマーを腰に差して線路に降りた。
今夜の作業は新宿駅西口方面のレール継ぎ目の点検だった。百メートルの区間を一つずつ、ハンマーでレールを叩いて確認していく。高い澄んだ音は正常、鈍い音は亀裂の兆候。二十二年間この音を聞き分けてきた耳は、わずかな音の違いも逃さない。
コンコン。コンコン。正常。レールの振動が手のひらからハンマーの柄を通じて腕に伝わってくる。この感触で、金属の内部に異常がないことを確かめる。
五十メートル進む。コンコン。正常。ふと、妻の里美が作ってくれた弁当を思い出した。今夜は肉じゃがだった。じゃがいもが少し大きめに切ってあって、里美らしいと思った。里美はいつも金曜の夜勤の前に、少し多めに弁当を詰めてくれる。「金曜は体力使うでしょ」と言って。
二十年前に結婚して、息子が一人。来年高校受験だ。野口は百メートル地点に到達した。ここで折り返して戻れば、今夜の作業は終わりだ。
そこに分岐器があった。レールが二本に分かれている。ポイント。だがこの区間に分岐器はない。路線図にもない。保線マニュアルにもない。
野口は懐中電灯を向けてレールの状態を確認した。錆がない。新しい。しかし敷設記録は存在しないはずだ。無線で報告しようとしたが、通じなかった。地下では中継器の死角で無線が途切れることがある。
報告するにしても、何があるのか確認する必要がある。野口は分岐の先に懐中電灯を向けた。トンネルが続いている。幅は通常の地下鉄トンネルと同じ。壁はコンクリート、天井にケーブルが走っている。見慣れた地下鉄の構造だった。
五十メートル進んだところで、空気が変わった。地下鉄特有の油と鉄粉の匂いが消え、代わりに雨上がりの土のような、どこか懐かしい匂いが漂ってきた。さらに進むと、ホームが見えた。
地下鉄の駅だった。タイル張りの壁、ベンチ、時刻表、駅名標。だが駅名標には「三十七番」とだけ書いてあった。白地に黒い明朝体で、それだけ。路線名がない。行き先がない。隣の駅の表示もない。ただ「三十七番」。
ホームは清潔で埃がなく、照明が点いていた。蛍光灯ではない。見たことのない光源で、柔らかい白い光が空間を満たしている。そしてベンチに三人の人間が座っていた。壁のタイルは白く清潔で、目地の一本一本が均等に揃っている。現実の地下鉄駅では見たことのない完璧さだった。
午前一時の、地図にない駅に。男性二人と女性一人、全員が通勤途中のような普通の服装で、一人はスマートフォンを見ており、一人は文庫本を読み、女性は目を閉じていた。
野口は足を止めた。二十二年間線路の上を歩いてきて、こんな光景は初めてだった。だが不思議と恐怖は薄かった。むしろ深夜の作業後に立ち寄る牛丼屋のカウンターに座ったときのような、どこか安心する感覚があった。この駅には、どこか懐かしいような穏やかさがあった。空気の温度が心地よく、照明の色が優しく、ベンチに座る人々の表情が穏やかだった。
「あの、すみません」と声をかけると、文庫本の男が顔を上げた。「はい?」「ここは何番線ですか」「三十七番線ですよ。次の電車は——」男が時刻表を見た。「あと三分です」。
野口は「三十七番線なんて、ないはずなんですが」と言った。男は首を傾げ、「ありますよ。ずっとありましたよ」と答えた。
壁の時刻表を見た。行き先の欄には文字があるが、日本語のようで日本語ではなかった。意味が取れない。足元の地面が微かに震えた。トンネルの奥からライトが近づいてくる。
銀色の車体、三葉トランジットの車両に似ているが、ロゴの代わりに「37」という数字が描かれていた。ドアが開いた。車内には十人ほどの乗客がいて、全員が普通の人間に見えた。スーツ、制服、私服。こちらの世界の人間と区別がつかない。だが全員が野口を見ていた。
ベンチの三人が立ち上がり、電車に乗り込んだ。文庫本の男が振り返って「乗りますか?」と聞いた。「いえ、仕事の途中ですから。戻ります」と野口は答えた。
「戻る? どこに?」。来た方向を振り返った。懐中電灯を向けた。電池の光が弱くなっていたが、それでもはっきり見えた。分岐器がなかった。トンネルの壁がつながっている。来た道が壁になっていた。
「戻れませんよ」と文庫本の男が穏やかに言った。「三十七番線は一方通行です。乗るか、ここにいるか。ここにいても、次の電車は来ますけどね」。ドアが閉まり、電車が発車した。銀色の車体が音もなくトンネルの奥に吸い込まれていった。
野口はホームに一人残された。電車の走行音が遠ざかり、やがて完全に消えた。静寂が戻ってきた。ベンチに腰を下ろした。懐中電灯の電池が切れたが、ホームの照明があるから暗くはなかった。無線は通じない。携帯電話は圏外。時計だけが動いていて、午前一時二十三分を指していた。
時刻表は読めない。次の電車がいつ来るのかも分からない。野口は里美のことを考えた。弁当箱を返しそびれたことを考えた。あの弁当箱は里美が結婚十周年に買ってくれたものだ。
息子の受験のことを考えた。志望校の過去問を一緒に解いた先週の日曜の午後を思い出した。もう少しだけ、あの日常の中にいたかった。金曜の夜に弁当を食べて、土曜の朝に帰宅して、寝ている息子の顔を見てから眠る、あの繰り返しの中に。
やがて野口はハンマーを手に取り、ホームのレールを叩いた。コンコン。澄んだ音。正常。聞き慣れた、澄んだ音。このレールだけは正常だった。それが最後に確かめられることの全てだった。
殉職報告書 第8号 氏名:野口健二(48) 所属:三葉トランジット保線部 死因:地図外分岐線への進入。帰還不能 備考:遺体未回収。分岐器は翌日の点検で確認されず。 野口が最後に叩いたレールの音が、保線記録用の録音機に残っていた。 正常を示す澄んだ音が二回。その後、三十秒の沈黙を挟んで、 もう二回。まるで誰かに「大丈夫だ」と伝えようとしているかのように