小説置き場

第7話「解読不能通知」

2,819文字 約6分

桂木道彦の朝はいつも珈琲と辞書から始まる。一月の朝七時、アパートの狭い書斎で、古代シュメール語の辞書を開きながら珈琲を啜る。マグカップに両手を添えると、陶器越しに熱が指先に伝わってくる。

 書斎というよりは壁一面の本棚に机を押し込んだだけの空間で、足元には読みかけの論文が積んである。窓の外はまだ暗い。隣室の住人が起き出す気配もなく、アパート全体が眠っている。珈琲の湯気が本棚のガラスに薄い曇りを作り、それがゆっくりと消えていく。

 この時間に読む死語の辞書には特別な静けさがあった。数千年前に滅んだ言語の文法規則を追いかけていると、時間という概念そのものが溶けていくような感覚がある。桂木はその感覚を愛していた。

 四十五年の人生のうち二十年以上を古代文字に費やしてきて、大学では博士号を取ったものの常勤ポストには恵まれず、「古代文字の読解能力を持つ研究者」という星流会の求人に応じたのが三年前のことだ。給与は大学の助教より良かったが、何を読まされるかは入ってから知った。

 正体不明の石板、出所不明の粘土板、ときには人骨に刻まれた文字。学会では一生お目にかかれないような資料が次々と回されてきて、桂木はそのたびに胸を躍らせた。解読を終えて報告書を書き上げた深夜、アパートに帰って冷えた珈琲を飲むときの充足感は、大学にいた頃には知らなかったものだった。学問の世界から追い出された自分を拾ってくれた場所が、まさか学問の最前線だったとは。

 今朝の依頼書にはこうあった。「品川区内の建設現場地下七メートルから石板一枚出土。表面に文字あり。緊急解読を要す。現場での作業。移動不可」。移動不可——石板が大きすぎるか、動かすと危険な何かがあるか。どちらにしても現場仕事だ。

 桂木は辞書を閉じ、残りの珈琲を飲み干した。流しにカップを置き、コートの襟を立てて外に出る。一月の風が頬を刺した。手袋をした指先が早くもかじかみ始めていた。

 電車に揺られること四十分、品川の建設現場には仮設テントが張られ、その中に石板が横たわっていた。七十センチ四方、厚さ十二センチ、灰色の石材。表面に刻まれた文字は楔形文字に似ているが、楔の角度が浅く、筆跡の深さが均一すぎた。人間の手で刻んだものではない。

 現代の工具に近い精度で、紀元前三千年の石に刻まれた文字。矛盾だが、桂木は矛盾に慣れていた。星流会の仕事は矛盾の解読そのものだ。

  仮設テントの中は暖房がなく、吐く息が白かった。桂木は手袋を外し、素手で石板の表面に触れた。冷たく、滑らかで、数千年の時間を経た石特有の重みがあった。

 撮影、拓本、デジタルスキャンによる基本データの記録に四十分を費やしてから、解読に入った。文字数は二百十四、十七行、一行あたり十二から十三文字。文法構造はSOV——主語、目的語、動詞の順で、日本語と同じ語順だった。

 最初の行を読み下す。「我ラ」「此ノ地ニ」「封ズ」。封じる。何を。二行目、「光ヲ喰ウモノヲ」。桂木はノートにペンを走らせながら、背筋に冷たいものを感じた。

 三行目以降には封印の手順が記されていた。素材、配置、詠唱の順序。学術的に見れば興味深い——古代の儀式体系が具体的な手順書として残されている例は極めて珍しい。桂木の心拍が上がるのを自分でも感じた。研究者としての本能が興奮し、ペンの動きが速くなった。指先が冷えていることも忘れていた。

 この石板の解読が終わったら、間違いなく論文が書ける。少なくとも自分のノートの中に、人類の知の断片を一つ加えることができる。もちろん星流会の機密規定があるから公表はできないが、自分のノートに残すだけでも意味がある。あと十年、二十年、この仕事を続けていれば、いつか公表できる日が来るかもしれない。

  ペンを握る手がかじかんでいたが、桂木は構わずに書き続けた。七行目に差しかかったとき、石板の表面が光った。七行目の最初の文字から淡い青が滲み出している。蛍のような淡い光。桂木は手を止めなかった。三年前にも光る石板に出くわしたことがある。あのときは光っただけで何も起きなかった。

 八行目、九行目と解読を進めるうちに、光は読み終えた行から順に広がっていった。十行目まで来て、ノートの半分が文字で埋まったところで、桂木はようやく気づいた。

 これは文書ではない。封印の「記録」でも「手順書」でもない。これは封印そのものだ。文字が封印の構成要素であり、読むという行為が封印の解除手順になっている。読む、すなわち解除。

 桂木の背筋を冷たい汗が伝った。自分が今やっていたことの意味が、一瞬で反転した。学術的興奮で夢中になっていた自分が、封印を解く道具にされていたのだ。桂木は石板から目を離した。十行目まで読んでいる。残り七行。読まなければ封印は解除されない。

 テントの外に出ようとしたが、足が動かなかった。石板が桂木を引いている。十行目まで読んだ人間を最後まで読ませようとする力——知的好奇心ではなく、物理的な拘束力だった。視線が石板に引き戻される。

 桂木は目を閉じた。瞼の裏に赤い闇が広がる。安全だと思った。だが、その闇の中に十一行目の文字がくっきりと浮かんだ。目を閉じていても読める。十二行目、十三行目。止められない。文字が頭の中に流れ込んでくる。

 桂木はポケットから携帯電話を手探りで取り出し、星流会の緊急連絡先に発信した。「桂木です。品川現場。石板は封印そのものです。読むと解除される。十行目まで読みました。残り七行が止められません。目を閉じても進行しています」。

 電話の向こうで声が叫んだ。「桂木先生、今すぐ離れて」。「離れられません。石板を破壊してください。物理的に。読み終わる前に」。

 十四行目。十五行目。桂木は最後の力を振り絞って口を動かした。「最終行の解読結果を報告します。『封ジタモノガ目ヲ覚マス』」。研究者として、最後まで記録を残そうとする本能だった。

 十七行目の最後の文字が脳裏に刻まれた瞬間、石板が開いた。中央に亀裂が走り、亀裂の奥から黒い光が溢れた。光なのに黒い。矛盾した光だった。テントが吹き飛び、桂木の体は消えた。

 建設現場の作業員たちは、地下から突き上げるような振動を感じたと証言した。テントがあった場所には半径三メートルの円形の焦げ跡が残り、周囲のコンクリートには放射状の亀裂が走っていた。

 星流会の処理班が到着したとき、石板は粉々になっていた。文字は一つも残っていない。桂木のノートだけが残った。十行目までの解読メモ。丁寧な楷書で書かれている。十一行目以降は空白だった。

  殉職報告書 第7号   氏名:桂木道彦(45)   所属:星流会学術部門(契約嘱託)   死因:封印文字列の強制解読による消失   備考:遺体なし。解読ノート(十行分)は星流会が回収。石板は消滅。      ノートの最終ページの余白に、業務と無関係の走り書きがあった。      「シュメール語の受動態についての新仮説——帰ったらまとめる」。      桂木は帰らなかった