小説置き場

第6話「遺書代筆依頼票」

2,821文字 約6分

芦田光太郎は毎朝、万年筆の手入れから一日を始める。ペン先を柔らかい布で拭き、インク壺の残量を確かめ、試し書きをする。今朝も新宿区の雑居ビル三階にある小さな事務所で、便箋の端に「本日は晴天なり」と書いた。インクは深い青。瓶の底が見え始めていて、来週には新しいものを買わなければならない。

 事務所の窓を少しだけ開けると、七月の朝の湿った空気が入ってきた。階下の飲食店はまだ閉まっていて、ビルの廊下は静かだった。

 五十三年生きてきて、毎朝欠かさず書いてきたこの一行を書くときだけ、芦田の筆跡は少しだけ自分自身のものになる。仕事のときは違う。仕事のときは依頼人の言葉を、依頼人が書いたかのように整える。行政書士としての表の仕事——遺言書や契約書、内容証明郵便の作成——もそうだが、裏の仕事はなおさらだ。裏の仕事とは、遺書の代筆である。

 裏の世界には、死を覚悟しなければならない人間がいる。危険な任務に就く者、制御できない力に蝕まれている者、逃げ場のない契約に縛られた者。彼らの多くは自分で遺書を書く余裕がない。手が震えている。時間がない。文字を書けないほど衰弱している。

 芦田がそれを代わりに書く。聞き取りをして、言葉を整え、便箋に万年筆で清書する。十七年間で八百通以上。一通あたりだいたい二時間。料金は三万円、夜漏守の紹介であれば二万円。

 芦田がこの仕事を続けているのは金のためではなかった。人が最後に残す言葉には、その人の人生の輪郭が凝縮される。芦田はその輪郭に触れるたびに、人間というものの不器用な美しさに胸を打たれた。大切なことは「愛しています」ではないのだ。灯油のストーブの芯を替えてほしいとか、猫の缶詰は月に一回でいいとか、そういう些細で具体的な言葉の中にこそ、その人が本当に生きていた証がある。

 今夜の依頼は夜漏守経由だった。「急ぎの案件です。顧客は超能力者。能力の制御が利かなくなっている。明日の朝までに遺書が要ります」。

 芦田は夜の十時に事務所の鍵を開けた。階段を上がるとき、三階の廊下に自分の靴音だけが響いた。事務所のドアを開け、電気をつけ、エアコンのスイッチを入れる。七月の夜はまだ蒸し暑い。

 窓の外では新宿の街がいつものように光っている。ネオンの色がガラスに反射して、事務所の壁に赤や青の影を落としていた。明日もこの窓からこの光を見るのだろうと、なぜかそのとき思った。

 顧客が来た。三十代の男で、名前は中園修。痩せていて、目の下に深い隈があり、唇が乾いてひび割れていた。椅子に座った中園の手元で、マグカップの水が微かに浮いた。一センチ、二センチ。念動力——物体を動かす力が制御できなくなっている証拠だった。

 「すみません。こういうの、止められなくて」と中園は言った。芦田は「構いませんよ。水は零れなければ問題ありません」と穏やかに答えた。中園の肩が少しだけ下がったのが見えた。緊張が一段ほぐれたのだろう。

 芦田は万年筆を手に取り、便箋を広げた。この瞬間がいつも好きだった。白い便箋の上に、誰かの人生の最後の言葉が降りてくるのを待つ、静かな緊張。

 遺書の宛先は中園の母親、中園和子、七十三歳。伝えたいことを尋ねると、中園は天井を見上げた。震える手を膝の上で組み、マグカップの水が三センチ浮いて、また戻った。

 「心配させてごめん、と」。それから少し考えて、「冬になったら灯油のストーブの芯を替えてほしい。去年から替えてなくて、煙が出るから」。そして猫の餌のこと。カリカリの方をやってほしいが、月に一回くらいは缶詰もやってほしい、と。通帳はタンスの二段目の奥にあり、暗証番号は母親の誕生日、0314。

 芦田は万年筆のペン先を紙に押し当て、それらを一つ一つ丁寧に書き取った。八百通以上の遺書を書いてきたが、ストーブの芯のことを頼む遺書は初めてだった。その具体性に、芦田の胸が詰まった。この青年は死を語っているのではない。母親の冬の暮らしを語っているのだ。

 文字を書くたびにインクが紙の繊維に沁みていく微かな抵抗を指が感じる。ストーブの芯。猫の缶詰。通帳の暗証番号。中園修という人間が三十数年かけて積み重ねてきた、ささやかで温かい日常の、最後の残像がそこにあった。

 中園が最後の言葉を口にしたとき、その声は震えていた。「僕は化け物になるところだったんです。能力が暴走して、止められなくなって。明日の朝、特管局の人が来て処分されます」。芦田は「存じています」と静かに答えた。代筆屋をしていると珍しくない話だ。

 中園は唇を噛み、それから言った。「最後の言葉を、『ごめんなさい。でも、化け物にはならなかったよ』にしてほしいんです。化け物になる前に自分で終わりにしたって、そういう意味だと母に分かるように書いてほしい」。

 芦田は頷き、便箋に向かった。万年筆のインクが紙に染み込んでいく感触を指先に感じながら、この青年がもう少しだけ生きていられたら、と思った。せめてもう一度、母親の作る食事を食べて、猫を膝に乗せて、冬のストーブの前で眠れたなら。だが芦田の仕事は願うことではなく書くことだった。

 便箋三枚、表と裏。最後の一行に、「お母さんへ。ごめんなさい。でも、化け物にはならなかったよ」と書いた。

 芦田はペンを置き、インクが乾くのを十秒待ってから便箋を折った。封筒に便箋を入れ、糊付けをし、宛名を書いた。中園和子様。中園が震える手で封筒を受け取った。

 「ありがとうございます」と言った。その瞬間、震えが封筒から机へ、机から椅子へ、壁へと伝播していった。壁の時計が落ち、本棚の本が一斉に飛び出した。念動力の暴走だった。

 中園の目が見開かれている——自分でも止められない。「芦田さん、逃げて」。芦田は椅子を蹴って立ち上がり、ドアに向かったが、ドアノブは念動力で金属が歪み、開かなかった。窓ガラスにはヒビが入っていたが、まだ割れていない。

 中園が叫んだ。「ごめんなさい」。部屋の中の全てが浮いた。机、椅子、本棚、万年筆、便箋の束、芦田の体。五秒間、全てが浮いて——落ちた。

 翌朝、特管局の処理班が到着したとき、雑居ビル三階の部屋は空だった。家具は粉々になり、壁には亀裂が走り、窓ガラスは消失していた。中園修の体も芦田光太郎の体も見つからなかった。

 ただ一つ、封筒が壁に貼りついていた。念動力で壁面に圧着されたらしく、封筒は無傷で、宛名のインクも滲んでいなかった。中園和子様。その封筒は夜漏守を経由して、中園の母親のもとに届けられた。

  殉職報告書 第6号   氏名:芦田光太郎(53)   所属:フリーランス行政書士(夜漏守協力者)   死因:顧客の超能力暴走に巻き込まれ消失   備考:遺体なし。最後の代筆品(遺書一通)は依頼主の遺族に配送済み。      芦田の事務所跡から、十七年分の代筆記録は全て粉塵になっていたが、      机の引き出しに入っていた私物の便箋一枚だけが無傷で残っていた。      そこには今朝の試し書きで「本日は晴天なり」と書かれていた