小説置き場

第5話「身元照会」

2,842文字 約6分

内海真帆がその朝の異常に気づいたのは、いつもと同じ始業前のコーヒーを淹れているときだった。給湯室の窓から見える十月の空はまだ薄暗く、始業まで二十分ある。彼女はこの二十分が好きだった。

 蛇口から水を汲み、電気ポットのスイッチを入れる。湯が沸くまでの間にマグカップを棚から出し、インスタントではなく自分で持ち込んだドリップバッグをセットする。こうした手順の一つ一つが、今日という日の始まりを正しく整える儀式のようなものだった。

 データ整合課のフロアに人が少ない時間帯、自分のデスクに戻ってモニターを立ち上げ、昨夜のうちに蓄積されたアラートを静かに確認する。蛍光灯がまだ半分しか点いていないフロアで、自分のデスクライトだけが白い円を作っている。コーヒーの湯気とキーボードの打鍵音だけが世界の全てであるような、清潔で秩序だった朝の時間。

 アルカID運用部に勤めて六年、全国一億二千万件の統合IDデータの整合性を守るという仕事は地味で膨大だったが、内海はその地味さを愛していた。数字と数字の間に矛盾がないことを確かめる作業は、世界がまだ正しく動いていると確認する行為に似ている。

 その朝、アラートの一つが内海の目を引いた。ID番号7841-2203-5567。三ヶ月前にデータベースから物理削除されたはずのIDが、昨夜二十三時十二分に復活している。

 削除は不可逆操作であり、バックアップからの復元には管理者権限と正式な申請記録が必要だが、そのどちらも存在しなかった。実行者のアカウント名は「SYSTEM」——人間ではなく、システムによる自動処理を意味するコードだ。

 内海はコーヒーカップを脇に寄せた。湯気はもう消えていたが、気にならなかった。指先がキーボードの上で加速するのを感じながら、ログの深い層へと潜っていった。

 自動削除の根拠を探す。死亡届の処理、国外転出、裁判所命令——正規の手続きであれば必ず残る申請記録が、このIDにはどこにもなかった。削除されたIDの所有者の氏名は空欄。関連データも大半が消去されていたが、住所フィールドの断片だけが残っていた。バックアップの消去が不完全だったのだ。東京都槻ノ森市。番地以降は欠落している。

 内海は槻ノ森市の住民登録データとアルカIDのクロスリファレンスを走らせた。七月十五日前後に同市から転出届が出された人物を絞り込むと、三件が浮上した。三件ともアルカIDが削除されていた。三件とも根拠記録がない。三件とも実行者は「SYSTEM」。偶然にしては揃いすぎている。

 内海の指はキーボードの上で一瞬止まり、それから上司の村瀬に報告メールを書きはじめた。書きながら、自分がこの発見に興奮していることに気づいた。六年間データの矛盾を追いかけてきて、これほど明確なパターンに出くわしたのは初めてだった。矛盾のない世界を愛する彼女にとって、この整然とした不正は逆説的に美しくさえあった。

 村瀬は報告を聞いて三秒黙った。モニターに目を落としたまま、内海の方を見なかった。「内海。これは深入りするな」と言った。「削除されたものは削除されたんだ。復活したなら再削除すればいい」。

 内海が不正アクセスの可能性を指摘すると、村瀬は「不正アクセスじゃない。そういう削除なんだ」とだけ言った。そういう削除。その言葉の重さを、内海は自席に戻ってからゆっくりと噛み砕いた。

 村瀬は知っているのだ。この削除が何によるものかを。だが教えない——教えられないのか、教えたくないのか。村瀬の声には怒りではなく、どこか疲れたような響きがあった。まるで同じことを以前にも誰かに言ったことがあるかのように。

 どちらにしても、六年間信頼してきた上司が自分の目を避けたという事実が、内海の胸に小さな棘のように刺さった。

 昼休み、内海は弁当も開けずに席を立った。休憩室の自販機で紙パックの牛乳を買い、窓際の席に腰を下ろした。周囲の同僚たちの雑談が遠く聞こえる。

 内海は会社のネットワークを避け、個人のスマートフォンで検索した。槻ノ森市、転出、不自然な転出届。検索結果はほとんどなかったが、「槻ノ森タイムス」というローカルメディアの記事が一件だけヒットした。「当市において、近年、住民の転出先住所が実在しないケースが散見される」。

 実在しない住所への転出。根拠なき自動削除。内海はサンドイッチを齧りながら、三件の周辺データを個人の端末に暗号化して保存した。口の中のパンの味がしなかった。牛乳を一口飲んだが、それも味がしなかった。

 退勤後、自宅のデスクで分析を続けた。リビングの照明はつけず、モニターの光だけが顔を照らしていた。冷蔵庫の中には昨日買った惣菜パンが残っていたが、食欲はなかった。

 三件の転出届の日付、転出先住所の形式、全てが同じパターンを描いていた。県名と市名は実在するが、番地が存在しない。まるで誰かが——あるいは何かが——人間を一人ずつ、書類の上から静かに消しているかのようだった。

 もう少しだけ調べたい、と内海は思った。窓の外では街灯が点き、隣の部屋から微かにテレビの音が漏れてきている。あと数日あれば、このパターンの全体像が見える。あと数日でいい。

 翌朝。十月の朝の空気は昨日より冷たかった。内海はいつもより五分早く家を出て、駅までの道を歩いた。街路樹の銀杏が黄色く色づき始めていて、歩道に落ちた実を踏まないように足元を見ながら歩く。

 駅のホームで立ち止まった。朝八時。通勤客の流れに揉まれながらスマートフォンを確認すると、アルカIDの自動通知が一件届いていた。ID番号4456-8801-3312のステータスが変更されました——それは内海自身のIDだった。

 ステータス:有効から削除予約済へ。削除予定日:本日。実行者:SYSTEM。

 指先が冷たくなった。十月の朝の気温のせいではない。昨日まで自分が追いかけていた矛盾が、今度は自分の番号の上に載っている。データの向こう側に立っていたはずの自分が、いつの間にかデータの中に入っている。

 内海は画面を見つめた。昨日と同じパターンだった。根拠記録なし。自動処理。ただ今度は、消される番号が自分のものだった。

 ホームのアナウンスが電車の接近を告げている。足元を見ると、いつの間にか黄色い線の外側に立っていた。背後で何かが動いた気がして振り返ったが、通勤客の波があるだけで、誰の顔も判別できなかった。ただ、押された、という感覚だけが肩に残った。気のせいかもしれない。気のせいであってほしかった。

 午前八時四分。電車が来る音を、内海は最後まで聞いた。

  殉職報告書 第5号   氏名:内海真帆(32)   所属:アルカID運用部データ整合課   死因:通勤中の転落事故(公式記録)   備考:個人端末に保存されていたデータは発見されなかった。      上司の村瀬は三日後に異動した。後任者への引き継ぎ資料に      内海の調査に関する記述はない。ただ、村瀬の机の引き出しから、      内海宛の付箋が一枚見つかっている。「すまない」とだけ書いてあった