小説置き場

第4話「退去勧告」

2,740文字 約5分

赤羽功は目覚まし時計が鳴る五分前に目を覚ます男だった。四十一歳。勤続十五年。体内時計が正確すぎて、妻の真弓に「あなた自体が目覚まし時計ね」と呆れられている。

 今朝も午前六時二十五分に目が開いた。隣の部屋から娘の奏太の寝息が聞こえる。中学二年生、今日は期末テストの最終日だ。昨夜リビングで数学の問題集を広げていたのを思い出し、できはどうだろうと考えた。  台所で真弓がコーヒーを淹れてくれた。トーストにバターを塗りながら、真弓が「今日は遅くなる?」と聞いた。赤羽は少し考えた。今日の案件は杉並区の住宅街、規模は中程度、推定開放時間は四時間。午後には終わるはずだ。「夕飯には間に合う」と答えた。

 「奏太のテスト終わるから、焼肉にでも行く?」。真弓が笑った。「いいけど、あなたの財布が泣くわよ」。中学生の食欲は底なしだ。赤羽もつられて笑い、コーヒーを飲み干した。苦かった。真弓のコーヒーはいつも少し濃い。

 特務管理局空間保全課の異界境界管理員。赤羽の仕事は、都市部に発生する異界の「滲み」を検知し、封鎖し、滲みの範囲内に取り残された一般人を退去させることだ。

 滲みとは、こちら側と向こう側の境界が薄くなる現象で、目に見える変化はほとんどない。路面の温度分布にわずかな異常が出る。信号機の点滅間隔がコンマ数秒ずれる。動物が範囲から離れる。

 今日の滲みは午前八時に検知された。杉並区の住宅街、半径七十メートル。六棟のマンションと一軒の戸建てが範囲内に含まれている。犬が一匹もいない区域。飼い主たちは「散歩から帰ってこない」と思っているだろうが、犬は正しい判断をしている。  滲みには開放時間がある。開いている間に入り、中の人間を出し、自分も出る。閉じたら中にいる者は出られない。今回の推定開放時間は午前九時から午後一時までの四時間。

 防護装備はない。異界の滲みに対する物理的な防護は存在しない。必要なのはタイミングと、人を動かす話術だ。赤羽はこの十五年で百三十二件の退去勧告を完了させている。取り残された一般人はゼロ。その記録が赤羽の誇りだった。

 午前九時、現場に入った。一棟目、四階建てマンション。在宅三世帯。赤羽はインターホンを押し、東京ガスの偽造名刺を差し出し、穏やかに告げる。「近隣でガス漏れが発生しました。一時的に退避をお願いします」。

 ガス漏れは定番の口実だ。超常現象の説明は一般人には通じないが、ガス漏れなら誰でも納得する。七十代の夫婦は「怖いわねえ」と素直に出てくれた。三十代の母親は泣いている幼児を抱っこ紐で抱えて出てくれた。在宅勤務中の四十代男性は「今ウェブ会議中なんですけど」と渋ったが、名刺を見せると諦めて出てくれた。一棟二十五分。手際は悪くない。  二棟目、三棟目、四棟目と同じ手順で進めた。丁寧に、だが迅速に。赤羽はこの「丁寧だが迅速」の塩梅が好きだった。急かしすぎると不審がられる。のんびりすると時間がなくなる。

 その間で、相手の不安を最小限にしながら足を動かさせる。この感覚は十五年かけて磨いた技術で、マニュアルには書けない種類のものだ。  五棟目の一階で手間取った。八十代の老人が「わしは動かん。ガス漏れくらいで死にゃせん」と言い張る。赤羽は玄関の外に立ったまま、十五分かけて説得した。

 老人の頑固さの奥にある不安——知らない場所に出される恐怖——を見抜いて、「近くのコンビニでコーヒーを飲んで待っていてください。三十分で終わりますから」と具体的な行き先と時間を示した。老人はようやく「コーヒーくらいなら」と腰を上げた。赤羽はその背中を見送りながら、奏太が老人になったとき同じように頑固だろうかと、一瞬だけ考えた。

 六棟目とその奥の戸建て。合計で在宅十九世帯、四十三人。全員退去。時刻は午後十二時二十分、残り四十分。

 赤羽は範囲内を最終確認した。一棟ずつ回り、ドアをノックし、声をかける。応答なし。全棟確認完了。百三十三件目もゼロ達成——そう思いながら、範囲の境界に向かって歩き始めた。  足が重かった。物理的な重さではない。空気の質が変わっている。滲みが入ったときより濃くなっていた。粘度のある空気を押し分けるように、十メートルに一分かかった。

 境界まであと四十メートル。時刻は午後十二時五十二分、残り八分。足が重いが、間に合う。間に合うはずだった。  後ろから声がした。「すみません」。振り返ると、マンションの入口に二十代の女性が立っていた。スーツ姿、キャリーケースを引いている。旅行帰りだ。退去勧告のときに不在だった住人が、今、戻ってきた。

「あの、このマンション、何かあったんですか? 人がいないんですけど」 「ガス漏れです。入らないでください。今すぐ外に出てください」 「え、荷物だけ——」 「今すぐです。走ってください」

 赤羽は女性の手を取った。冷たい手だった。境界に向かって走る。女性はキャリーケースを引きずりながら、混乱した顔で走った。

 境界まで二十メートル、十メートル。空気が震えた。滲みが閉じ始めている。予定より早い。赤羽は女性の背中を両手で押した。「止まるな!」。女性が境界を越えた。キャリーケースの車輪がアスファルトの段差につまずき、女性が転んだ。だが境界の外側に転んだ。  赤羽は境界の内側にいた。あと二メートル。たった二メートルが、水飴の中を進むように遠かった。

 滲みが閉じた。音がなくなった。女性の「大丈夫ですか」という声が途切れ、街のざわめきが消えた。

 赤羽の周囲は杉並区の住宅街のままだった。マンション、電柱、アスファルト。だが空が紫がかっている。太陽がない。光はあるが光源がない。携帯を見た。圏外。時計は午後十二時五十九分で止まっている。  赤羽は道路の縁石に座った。四十三人は全員出した。最後の一人、旅行帰りの女性も出した。百三十三件、取り残し一般人ゼロ。その記録は守った。自分だけが出られなかっただけだ。  マニュアルの最終章「境界内に取り残された場合の対処」。一行だけ書いてある。「待機せよ。次の開放を待て」。次の開放がいつかは書いていない。一年後かもしれない。百年後かもしれない。来ないかもしれない。  ポケットからチョコレートを出した。板チョコ一枚。非常食として常に携帯している。一かけ割って口に入れた。甘かった。

 奏太は今頃テストが終わって、焼肉のことを考えているだろうか。赤羽はもう一かけ食べた。焼肉の約束は、守れそうにない。

  殉職報告書 第4号   氏名:赤羽功(41)   所属:内閣府特務管理局 空間保全課   死因:異界境界封鎖時の取り残し。帰還不能   備考:退去対象者43名は全員無事。遺体未回収。境界の再開放予定は不明。      赤羽管理員の退去勧告完了率は在職中133件で100パーセントだった。最後の案件を含めて。