笠原由紀は毎朝、猫に起こされる。アメリカンショートヘアの雄で、名前はグレイ。朝六時になると枕元に来て、笠原の髪を前足で触る。餌の催促だ。「はいはい」と呟いて起き上がり、台所でカリカリをボウルに注ぐと、グレイは見向きもせずに食べ始める。
三十四歳、独身、猫と一人暮らし。勤続八年。内閣府特務管理局情報保全課の情報災害対策員という肩書きは、名刺にも書けない。友人には「内閣府の事務職」と説明している。嘘ではない。事務もする。ただし、その事務の中身が普通ではないだけだ。 トーストをかじりながらスマートフォンを見る。SNSのタイムラインが流れていく。こうして何気なく映像を再生する人々の中に、今日の仕事が待っている。
通勤電車の中で文庫本を開いた。ミステリの続き。犯人が分かりかけているところで、降りる駅に着いた。帰りの電車で読もう、と栞を挟んだ。
地下三階の解析室に入ると、防音と遮光の闇が笠原を包んだ。モニターが三台。左に元映像、中央に波形解析、右に報告書テンプレート。今朝の指示書には「SNSプラットフォーム上で拡散中の映像一件、再生回数四万二千、認知汚染の疑い、至急解析せよ」とあった。 解析の手順はマニュアルに従う。第一段階として映像をフレーム単位に分解する。一秒あたり三十フレーム、映像の長さは二分十四秒、合計三千八百四十フレーム。ソフトウェアが自動処理し、三分で分解が完了する。
第二段階からが人間の仕事だ。各フレームの色調、明度、コントラストを数値化し、人間の視覚皮質に異常な刺激を与えるパターンがないか検査する。既知のパターンは機械が弾くが、未知のパターンは人間が見て、「何かおかしい」と感じるしかない。
その「感じる」能力が、笠原の価値だった。八年間で四十七件の未知パターンを検出している。課で最も多い。上司の宮沢は「笠原の目は保険に入れたいくらいだ」と冗談を言うが、笠原自身は自分の目が信用できない夜がある。おかしいものを見すぎると、何がおかしくて何が正常か、境界が曖昧になる。 防護ゴーグルを装着した。映像の色調を十五パーセント減衰させる装備だ。完全な防御ではなく軽減。ヘッドフォンをつけ、フレームの確認を始めた。
最初の五百フレームは普通の風景映像だった。公園、犬の散歩、子どもが遊んでいる。穏やかな映像を一枚ずつ確認していく作業は単調で、だからこそ集中力が要る。
五百一フレーム目で微かな違和感を覚えた。画面の左端に——いや、何もない。見間違い。だが笠原の手が一瞬止まったことを、自分は覚えておかなければならない。この仕事は、自分の認知の変化を記録し続ける仕事でもある。 千フレーム目。確認ペースが落ちている。一枚三秒だったのが五秒になっている。理由が分からない。画像に引き込まれているのか、それとも慎重になっているだけか。
千五百フレーム目で目を擦った。ゴーグルの内側が曇っている。汗だ。室温は二十二度のはずなのに額が湿っている。
二千フレーム目を確認したとき、時計を見て息を飲んだ。四時間が経過していた。昼食を取っていない。取る気になれない。映像から目を離したくないのだ。 目を離したくない——それが汚染の始まりだと、笠原は知っていた。マニュアル第五章「解析員の自己モニタリング」の兆候リスト、「映像から目を離すことへの抵抗感」は第三段階の兆候。中断すべきだ。交代要員を呼ぶべきだ。
笠原は立ち上がり、ゴーグルを外し、部屋の隅の鏡を見た。目の下にくまがあり、唇が乾き、瞳孔が開いている。第三段階の身体的兆候がすべて出ている。
ドアに向かうべきだった。廊下に出て、宮沢に報告して、交代要員の松永に引き継ぐべきだった。なのに笠原は椅子に戻った。ゴーグルをつけ直した。
画像の中に何かがある。まだ見つけていない何かが。見つけるまではやめられない——この執着もまた汚染の症状だと知りながら、指はマウスホイールを回し続けた。グレイが家で待っていることを、このとき笠原は思い出さなかった。毎日必ず思い出すのに。 二千五百フレーム目。公園の犬が振り返っていた。何かを見ている。犬の目がカメラを見ている。いや、カメラではない。犬は笠原を見ている。フレームの中から、こちらを。
映像の中のものが自分を見ていると感じるのは、認知汚染の第四段階。視覚情報の処理が逆転する兆候だ。知っている。知っていてもゴーグルを外せなかった。
三千フレーム目。六時間が経過していた。笠原は右のモニターに報告書を書き始めた。「認知汚染解析報告書。対象:SNS映像ID-2025-10-3847。解析員:笠原由紀。結果:」。
結果の欄に何を書くべきか分からなかった。汚染パターンは見つかったのか。見つかっていないのか。自分が見ているものは映像なのか、映像が見ているものは自分なのか。その区別がつかなくなっている。区別がつかないこと自体が答えなのだと、頭の隅ではまだ理解していた。だが理解と行動の間に、黒い溝ができている。 八時間目。笠原はキーボードを打っていた。画面に文字が表示されているが読めなかった。日本語のはずなのに、自分が打ったはずなのに。
「解析の結果、当該映像には——」その先が出てこない。「認知汚染パターンが——」あるのかないのか。自分が汚染されているから分からないのか、汚染されていないから何も見つからないのか。 ゴーグルを外した。鏡を見た。映っているのが自分だと分からなかった。顔は知っている。名前は知っている。笠原由紀、三十四歳、情報災害対策員。
だがそれが「自分」であるという確信が、コップの水が蒸発するように消えていた。鏡の中の人間が、あの犬と同じ目でこちらを見ている。 ドアに向かった。ドアノブを握った。金属の冷たさがある。触覚はまだ残っている。
だがドアの向こうに何があるか思い出せなかった。廊下があることは知っている。廊下の先に何があるか。自分がどこから来たか。今朝、グレイに餌をやったか。グレイとは何か。笠原はドアノブを握ったまま立っていた。立っていた。
午後十一時、交代要員の松永が解析室のドアを開けた。笠原が立っていた。ドアノブを握ったまま、目は開いている、呼吸はしている。だが呼びかけに応答しなかった。
搬送先は翼医療グループの特殊病棟。診断は「高度認知汚染による自我機能の不可逆的損壊」。回復の見込みはない。笠原の体は生きている。心臓は動いている。だが笠原由紀という人間は、もういない。
殉職報告書 第3号 氏名:笠原由紀(34) 所属:内閣府特務管理局 情報保全課 死因:認知汚染による自我崩壊(生体は維持) 備考:解析対象の映像は未解決。後任:松永誠。 笠原対策員の自宅には猫一匹が残されており、同僚の吉田が引き取った。
解析室のモニターには報告書が途中まで表示されていた。「結果:」の欄は空白のまま。松永は新しいゴーグルをつけ、椅子に座った。二千五百一フレーム目から。