小説置き場

第20話「移転先不明」

3,029文字 約7分

十月二十日。月曜日。午前六時。北村敦はアパートの狭い台所で食パンを焼いていた。

 トースターが古くて、片面だけ焦げる。毎朝のことだ。焦げた面にバターを塗って、焦げていない面にジャムを塗る。コーヒーはインスタント。三十四歳、独身、一人暮らし。朝食に手をかける理由がない。

 窓の外は曇っていた。十月の東京。空気が冷たくなり始めている。

 玄庫ロジスティクス生活移転課で特殊引っ越し案件を扱って八年になる。社内では「何でも運ぶ北村」と呼ばれていた。

 普通の引っ越しとは何もかもが違う。荷物が普通ではない。転居先が普通ではない。依頼人が普通ではない。

 今日の案件は、一件の個人引っ越し。伝票を確認した。

 依頼人:望月絵里子。四十七歳。転居理由:「環境の変化」。現住所:東京都多摩地域の住宅地。転居先住所:東京都多摩地域、槻ノ森市。

 住所の後半が奇妙だった。番地の代わりに「西雑木林方面、大楠の三本目を北」と書いてある。これは住所ではない。道順だ。

 北村は管理課に確認した。

「この転居先、地図に出ますか」

「出ない。ナビにも出ない。だが依頼書は正規のルートで受理されている。特殊案件コードC-8。異界関連」

 C-8。北村が扱った中で最も面倒なカテゴリーだ。マニュアルを確認した。

 第一項。「転居先が通常空間にない場合、依頼人の案内に従うこと」。  第二項。「荷物の搬入後、速やかに帰路につくこと。転居先に三十分以上滞在しないこと」。  第三項。「転居先の景色を写真・映像で記録しないこと」。  第四項。「帰路が分からなくなった場合、来た方向に歩くこと。走らないこと」。  第五項。「帰路に確認用の目印を設置すること。ただし、目印が消えていた場合は本部に連絡すること」。

 北村は二トントラックに荷物を積み込んだ。段ボール箱が十二個。家具が五点。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ソファ、本棚。普通の家財道具だ。

 望月さんの自宅に着いた。住宅街の一軒家。庭に柿の木がある。実が色づき始めていた。

 望月さんが玄関で待っていた。髪が長い。穏やかな顔。少し疲れているが、目には決意がある。

「北村さんですか。よろしくお願いします」

「こちらこそ。転居先は——」

「私が案内します。車の後について来てください」

 望月さんの白い軽自動車の後を、北村はトラックで追った。住宅街を出て、幹線道路を西へ。多摩地域の丘陵地帯に入ると、道が細くなった。木が増えた。

 槻ノ森市の市境を越え、さらに十分。道路が途切れ、未舗装の林道になった。

 林道を進んだ。木の枝がトラックの屋根を擦る音がした。

 望月さんの車が止まった。北村もトラックを止めて降りた。周囲は雑木林だった。楢と椚の木。秋の終わりで、葉が黄色くなっている。

 望月さんが林の中を指さした。

「あそこです。大楠の三本目を北に。歩いて五分くらい」

 マニュアルの第五項。帰路の目印。北村はトラックの脇に蛍光オレンジの三角コーンを立てた。林道の入り口にも一つ。合計二つ。

 段ボール箱を台車に載せて、林の中を歩いた。望月さんが先導する。大楠が三本、間隔を置いて並んでいた。自然の配置ではない。植えられた木だ。

 三本目の楠を北に回り込んだ。

 空気が変わった。温度でも湿度でもない。密度が変わった。空気そのものが濃くなったような感覚。呼吸が少し重い。

 林が開けた。小さな平地に、木造の平屋が建っていた。古い建築だが手入れされている。瓦屋根。引き戸。縁側。庭には小さな畑。

 日本のどこにでもある田舎の一軒家に見えた。

 だが林の向こうに、見慣れない山が見えた。稜線の形が日本の山ではない。空の色もわずかに青みが深い。

 北村は振り返った。来た道が見える。林の入り口が見える。トラックが見える。帰り道はある。

「ここに荷物をお願いします」

 望月さんが引き戸を開けた。畳の部屋が二つ。台所。空の部屋に秋の光が差し込んでいた。

 北村は荷物を運び込んだ。段ボール箱を指示された場所に置き、冷蔵庫を台所に、洗濯機を勝手口の横に、ソファを居間に、本棚を奥の部屋に。

 テレビを運び込もうとしたとき、望月さんが言った。

「テレビは要りません。ここでは映らないので」

「映らない?」

「電波が届かないんです。ここは——もう向こう側なんです」

 望月さんは窓の外を見た。見慣れない山の稜線。深い青の空。

「夫がいるんです。三年前に消えた夫が、ここにいるんです」

 望月さんの声は穏やかだった。悲壮感はない。三年間考えて、決めた人間の声だ。

「帰ってこられないんですか」

「帰れないんです。ここに根を下ろしてしまったから。だから私が来ました」

 北村は残りの荷物を運び込んだ。テレビ以外の全て。時計を見た。搬入開始から二十五分。マニュアルの第二項。三十分以上滞在しない。

「望月さん。搬入は完了です。伝票にサインをお願いします」

 望月さんがサインした。丁寧な字だった。

「北村さん。ありがとうございました。帰り道、気をつけて」

「はい。望月さんも、お元気で」

 北村は家を出た。縁側に立つ望月さんが手を振っていた。北村も軽く手を上げて、林の中を歩き始めた。

 大楠の三本目。二本目。一本目。

 林道に出るはずの場所に——出なかった。

 楠の先に、また林が続いていた。同じ種類の木。同じ密度。だが来たときの林ではない。配置が違う。

 北村は立ち止まった。マニュアルの第四項。来た方向に歩くこと。走らないこと。

 来た方向に歩いた。五分。十分。林が終わらない。

 第五項。帰路の目印を確認する。蛍光オレンジの三角コーンを探した。なかった。三角コーンも、林道も、トラックもない。

 目印が消えていた場合は本部に連絡すること。携帯を取り出した。圏外。携帯用の小型無線機を取り出した。

「こちら北村。生活移転課。C-8案件の帰路消失。座標不明。応答願います」

 ノイズ。応答なし。

「繰り返す。北村。帰路消失。応答願います」

 ノイズだけが返ってきた。

 北村は無線機をポケットにしまった。林の中に立っていた。木漏れ日が地面に模様を描いている。風が吹いている。温かい風だった。秋の風ではない。季節が違う。

 もっと長く生きたかったな、と北村は思った。三十四年では短い。まだやりたいことがあった。具体的に何かと聞かれると困るが、漠然と、もう少しこの世界にいたかった。

 片面だけ焦げるトースターを買い替えたかった。

 ポケットから伝票の控えを取り出した。望月さんのサイン。「搬入完了」のチェック。仕事は終わっている。荷物は届けた。

 引っ越し業者としての責務は果たした。あとは帰るだけだ。帰る道がないだけだ。

 北村はトラックの鍵をポケットの中で握った。もう使うことのない鍵を。

 歩き続けた。走らなかった。マニュアルに書いてある通り。

 翌日。玄庫ロジスティクスの管理課が、槻ノ森市の林道に二トントラックが放置されているのを確認した。エンジンは切られていた。荷台は空。

 搬入完了の業務報告は、北村の端末から衛星経由で自動送信されていた。

 トラックの助手席に、C-8案件のマニュアルが開いたまま置かれていた。第五項に赤い線が引いてある。

 蛍光オレンジの三角コーンは林道に一つだけ残っていた。もう一つは見つからなかった。

 林の中を捜索したが、大楠は三本とも存在しなかった。切り株もなかった。最初からなかったかのように。

  殉職報告書 第20号   氏名:北村敦(34)   所属:玄庫ロジスティクス 生活移転課   死因:異界帰還不能による消失   備考:搬入業務は完了。伝票の控えは未回収。      トラックの鍵は北村が所持したまま。合鍵で回送済み