小説置き場

第19話「能力暴走対応記録」

3,059文字 約7分

七月二十二日。火曜日。午前五時半。

 永田佳代はアラームが鳴る前に目を覚ました。施設の宿直室。窓の外はもう明るい。七月の朝は早い。カーテンの隙間から差し込む光が天井に細い線を描いていた。

 起き上がって、洗面台で顔を洗った。鏡に映る自分の顔を見た。三十八歳。目の下に薄い隈がある。昨夜は蓮が夜泣きをしなかったから、六時間眠れたはずだ。それでも隈は消えない。九年間の蓄積だった。

 宿直室を出て、共用の台所で湯を沸かした。紅茶を淹れる。砂糖を二つ。甘い紅茶が朝の儀式だった。マグカップを両手で包み、窓の外を見た。中庭に小さなブランコがある。蓮が昼間に乗るブランコだ。

 翼医療グループ第五児童保護施設。超能力が発現した児童を専門にケアする施設だ。所在地は非公開。外観は普通の児童養護施設だが、中身はまるで違う。壁は強化素材で補強され、各部屋には感情波のセンサーが設置されている。

 永田はここに九年勤め、五歳以下の児童四人を担当していた。四人全員が超能力を発現し、四人全員がそれを制御できない。

 超能力の発現は、幼児期に最も不安定になる。感情と直結しているからだ。泣けば物が飛ぶ。怒れば壁が割れる。怖がれば——周囲の人間も恐怖に巻き込まれる。

 永田の仕事は、子どもたちの感情を安定させること。薬物ではない。機械でもない。人間の手で。声で。温もりで。マニュアルはある。「感情暴走時の対応手順」。

 第一段階。距離を取る。児童から三メートル以上離れ、影響範囲の外に出る。  第二段階。声をかける。穏やかな声で。名前を呼ぶ。「大丈夫だよ」「ここにいるよ」。  第三段階。接触を試みる。影響が収まり始めたら、ゆっくり近づき、手を握るか肩に触れる。  第四段階。保持する。抱きしめる。体温を伝える。子どもが落ち着くまで離さない。

 マニュアルには書かれていないことがある。第四段階でケアワーカーが子どもの能力を直接受ける可能性。抱きしめた瞬間、子どもの感情の奔流が体に流れ込む。過去に三人のケアワーカーが入院した。一人は退職した。永田は九年間、一度も倒れなかった。

 担当児童の一人。滝本蓮。五歳。男の子。蓮の能力は「感情の伝播」。蓮が感じた感情が周囲の人間にそのまま伝わる。

 嬉しいときは周りも嬉しくなる。悲しいときは周りも泣く。怖いときは——施設全体が恐怖に包まれる。

 蓮は夜泣きをする。週に三回。決まって午前二時前後。悪夢を見ているらしい。何の夢かは分からない。五歳の子どもに夢の内容を正確に説明させるのは難しい。

 蓮が泣くと、施設の職員全員が目を覚ます。蓮の恐怖が建物全体に伝わるからだ。心拍数が上がる。冷や汗が出る。理由のない恐怖に襲われる。

 永田は毎回、蓮の部屋に向かう。

 今夜——午前二時に目が覚めた。胸が締め付けられるような恐怖。蓮だ。

 部屋を出た。廊下を歩いた。他の職員の部屋からも気配がする。みんな起きている。蓮の恐怖を感じている。永田は足を速めた。

 蓮の部屋のドアを開けた。

 暗い部屋。ベッドの上で蓮が泣いていた。声を出さずに泣いている。唇を噛んで、涙だけが流れている。

 五歳の子どもが声を殺して泣くのは、見ていて胸が痛む。泣くとみんなに迷惑がかかると、この子は知っているのだ。

 物が浮いていた。枕。ぬいぐるみ。絵本。コップ。蓮の感情の波が物理的な力になっている。

 いつもより強い。部屋の空気が振動しているのが肌で分かった。

 永田はドアの前で立ち止まった。マニュアルの第一段階。距離を取る。

 だが蓮が永田を見た。暗い中で、涙に濡れた目が永田を捉えた。

「ながたせんせい」

 小さな声。震えている。

「こわい。こわいの。やめたいのに、やめられないの」

 永田は第一段階を飛ばした。

 部屋に入った。浮いている物がぶつかってくる。枕が腕に当たった。コップが肩に当たった。痛い。だがたいしたことはない。蓮の手を握った。第三段階。冷たかった。蓮の手が氷のように冷たい。恐怖で体温が下がっている。

「大丈夫。先生、ここにいるよ」

「こわい。夢が、暗いところにいて、だれもいなくて」

 蓮の目から新しい涙が溢れた。恐怖の波が来た。永田の胸に直接ぶつかるような衝撃。息が詰まった。心臓が速く打った。視界が暗くなりかけた。蓮の恐怖が手を通して永田に流れ込んでいる。

 五歳の子どもの恐怖。暗闇の恐怖。孤独の恐怖。そして——自分の力が怖い。泣くと物が壊れる。泣くとみんなが怖がる。自分が怖い。

 自分がいるとみんなが怖い思いをする。だから泣きたくない。でも泣いてしまう。やめられない。

 永田は蓮を抱きしめた。第四段階。小さな体だった。五歳の体。骨が細い。震えている。

 もっと長くこの子のそばにいたい、と思った。この子が泣かずに眠れる夜が来るまで、ずっとそばにいたい。

 恐怖の波が大きくなった。抱きしめたことで接触面積が増え、蓮の感情が永田の全身に流れ込んでくる。心臓が痛い。物理的に。胸の左側が痛む。

 永田は歌った。子守唄。特別な歌ではない。昔、母親が歌ってくれた歌。歌詞も曖昧な、メロディだけの歌。

「ねんねんころりよ」

 声が震えた。恐怖の波で喉が震える。それでも歌った。

「おころりよ」

 蓮が永田の服を掴んだ。小さな手で、ぎゅっと。

「ぼうやはよいこだ、ねんねしな」

 浮いていた物が落ちた。一つずつ。枕がベッドに戻った。ぬいぐるみが床に落ちた。絵本が閉じた。コップが棚の上に、音もなく戻った。

 蓮の震えが弱くなった。涙が止まった。呼吸が深くなった。眠り始めている。永田は歌い続けた。蓮が完全に眠るまで。小さな寝息が聞こえるまで。

 蓮が眠った。

 永田は蓮をベッドに寝かせた。布団をかけた。汗で額に張り付いた髪をそっと払った。

 立ち上がろうとして——膝が折れた。

 床に座り込んだ。胸が痛い。心臓が不規則に打っている。脈が飛んでいる。蓮の恐怖を全身で受け止めた。九年間で最も強い波だった。

 永田はベッドの脇に座ったまま、壁に背中を預けた。蓮の寝顔が見えた。穏やかだった。泣いていた顔とは別人のように、柔らかい頬をしている。

 胸の痛みが広がっていく。左腕がしびれている。ナースコールを押すべきだ。ボタンはベッドの脇にある。手を伸ばせば届く。

 伸ばしたら蓮が起きるかもしれない。ボタンの音で。せっかく眠ったのに。

 永田は手を伸ばさなかった。

 蓮の寝息を聞いていた。規則的な、穏やかな呼吸。子どもの寝息。世界で最も安心する音だと、永田は思った。九年間、この音を何百回聞いてきただろう。

 永田の心臓が——止まった。静かに。痛みが消えるように。

 蓮は朝まで眠り続けた。一度も目を覚まさなかった。暗闇ではなく、誰かに抱きしめられている温かい夢を見ていた。

 朝、夜勤の看護師が蓮の部屋に入った。永田が壁に背中を預けて座っていた。目を閉じていた。

 膝の上に、蓮のぬいぐるみが一つ載っていた。夜中に落ちたのを拾って、膝の上に置いたのだろう。眠っている蓮の代わりに抱くように。

 蓮がベッドの上で目を覚ました。永田を見た。

「ながたせんせい。おはよう」

 永田は答えなかった。

 看護師が永田の脈を取った。なかった。体は冷たかった。だが顔は穏やかだった。

 蓮が永田の手を握った。

「せんせい、つめたい」

 看護師は蓮を部屋から連れ出した。蓮は振り返って、もう一度永田を見た。

「せんせい、こわいゆめ、もうみなかったよ」

  殉職報告書 第19号   氏名:永田佳代(38)   所属:翼医療グループ 第五児童保護施設   死因:超能力の感情伝播を受容したことによる心臓停止   備考:担当児童は無事。永田の後任には、歌が上手い人間を希望する、      と、蓮が言っていた