六月十八日。水曜日。午前五時。笹原辰造は布団の中で目を開けた。
七十一歳の体は朝が早い。寝ていたいのに目が覚める。膝が痛い。右耳の聴力も落ちている。だが頭は明晰だ。頭だけは七十一年間、一度も曇ったことがない。仲裁人にとって、頭の明晰さだけが命綱だった。
布団から出て、台所に立った。薬缶に水を入れ、火にかけた。棚から急須を出し、番茶の葉を入れる。この手順を何十年繰り返してきたか分からない。湯が沸く音を聞きながら、今日の仲裁のことを考えた。
夜漏守の非公式仲裁部門に三十八年。仲裁した案件は二百四十七件。一度も決裂を出していない。裏の世界では「笹原が座れば収まる」と言われていた。
収まる、というのは正確ではない。笹原が座ると、双方が「これ以上やっても損だ」と悟るのだ。笹原は奇跡を起こさない。ただ損得を見せるだけだ。
仲裁の仕事は単純に見えて、そうではなかった。二つの組織が利害で衝突したとき、間に立って落としどころを見つける。
裏の世界には法律がない。裁判所もない。代わりに仲裁人がいる。仲裁人は法律であり、裁判所であり、そしてときに生贄でもあった。
条件が三つある。
一つ。仲裁人はいかなる組織にも属さない。夜漏守は仲裁人を「保護」するが、指示は出さない。
二つ。仲裁人は公平でなければならない。どちらにも与しない。どちらの味方もしない。
三つ。仲裁の結果は絶対。双方が受け入れる。受け入れない場合は——仲裁人を殺してやり直すしかない。
三つ目の条件が、仲裁人の命綱であり、同時に死刑宣告でもあった。仲裁が成功し続ける限り生き延びられる。失敗した瞬間に死ぬ。三十八年間、笹原は綱の上を渡り続けてきた。
番茶を啜りながら、伝票を確認した。今日の仲裁の資料。場所は湊裏区の廃倉庫。当事者はオブシディアンと星流会。議題は港湾倉庫群の使用権。
嫌な予感がした。
オブシディアンは最近、勢力を拡大している。攻撃的だ。一方、星流会は研究寄りの組織で、通常は武力衝突を避ける。
この二つが倉庫の使用権で仲裁を求めてくるのは、違和感があった。星流会なら、倉庫くらい別の場所を探す。わざわざ仲裁にかけるような案件ではない。
笹原は茶を飲み干した。嫌な予感は経験から来る。経験は三十八年分ある。
午後二時。湊裏区の廃倉庫。海沿いの古い建物。錆びたシャッター。コンクリートの床に潮の匂いが染みついている。
パイプ椅子が三脚、向かい合うように置かれていた。真ん中が笹原。左が当事者A。右が当事者B。
当事者A。オブシディアンの中堅構成員、赤城。四十代。目つきが鋭い。背後に部下が二人。立ったまま壁に寄りかかっている。
当事者B。星流会の末端管理者、瀬尾。五十代。穏やかな顔をしている。背後に部下が一人。
笹原はパイプ椅子に腰を下ろした。膝が鳴った。冷たい椅子だった。背筋を伸ばし、双方を見た。
「では始めます。議題は湊裏区港湾倉庫群の使用権について。双方の主張を順にお聞きします」
「ここは元々うちの倉庫だ。売買契約の前から使っている」
赤城が言った。声に力がある。主張というより宣言に近い。
「契約は有効です。法的には」
瀬尾が応じた。穏やかだが、譲る気配がない。
笹原は二人の話を聞いた。聞くことが仲裁の八割だ。言葉の内容ではなく、言葉の裏にあるものを聞く。声の調子。目線の動き。手の位置。三十八年間、人間の嘘と本音の境目を見続けてきた耳と目だ。
赤城の本音——倉庫が欲しいのではない。星流会に舐められたくない。メンツの問題だ。
瀬尾の本音——倉庫が必要なのは事実だが、それ以上にオブシディアンとの力関係を試している。上からの指示がある。
メンツと力試し。実利ではなく政治。この手の仲裁は難しい。実利なら数字で折り合える。政治は折り合えない。勝つか負けるかだ。そして、勝ち負けの仲裁など存在しない。
「提案があります」
笹原が口を開いた。二人が黙った。仲裁人が話すとき、他の人間は黙る。それがルールだ。
「倉庫を二分割する。東側をオブシディアン、西側を星流会。共用部分は設けない。壁で仕切る。費用は折半」
実利的には妥当な提案だ。双方の面子も、かろうじて立つ。
赤城が首を振った。
「半分じゃ足りない。七対三。うちが七だ」
瀬尾が微笑んだ。
「それは公平とは言えませんね」
「公平を求めるなら裁判所に行け。ここは裏の世界だ」
笹原は二人を見ていた。聞いていた。
赤城の目が笹原を見ていなかった。笹原の背後——入り口の方を見ていた。
瀬尾の右手がテーブルの下にあった。何かに触れている。
三十八年の経験が告げていた。
今日の仲裁は、仲裁ではない。
双方とも、落としどころを探しに来ていない。最初から仲裁を成立させる気がない。仲裁が決裂すれば、条件の三つ目が適用される。仲裁人を殺して、やり直すか、あるいは仲裁なしで直接衝突する。
直接衝突が望みだ。双方とも。衝突の口実が欲しかった。「仲裁が不調に終わったから」という大義名分が。
笹原は理解した。自分は仲裁人としてではなく、仲裁の失敗を演出するための舞台装置として呼ばれた。
朝の嫌な予感は、正しかった。
もっと長く生きたかった、と笹原は思った。七十一年では足りない。仲裁の技術を誰かに伝えたかった。裏の世界に法律がないなら、せめて仲裁という秩序を残したかった。
だが後任はいない。候補者すらいない。この技術は笹原と共に消える。
「赤城さん。瀬尾さん」
笹原は静かに言った。
「お二人とも、最初から仲裁を望んでいませんね」
倉庫の空気が止まった。海風の音だけが遠くに聞こえた。
赤城が目を細めた。瀬尾の微笑みが消えた。
「仲裁人としての判断を申し上げます」
笹原は立ち上がった。膝が痛んだ。七十一歳の膝だ。痛みはもう慣れている。この膝で三十八年、綱の上を歩いてきた。
「双方に対話の意思がない。本件は不調とします」
不調。仲裁の失敗。条件の三つ目。
赤城が動いた。背後の部下が動いた。瀬尾のテーブルの下の右手が動いた。
笹原は動かなかった。
二百四十七件の仲裁を成功させてきた。二百四十八件目が最初の失敗であり、最後の仕事だ。
公平であること。どちらにも与しないこと。それは、どちらからも守ってもらえないことを意味する。分かっていた。三十八年前から、この日が来ることを分かっていた。
笹原は目を閉じなかった。
二つの方向から——同時だった。倉庫の中に短い音が二つ響いた。コンクリートの壁に反響して、一つに聞こえた。
笹原はパイプ椅子に座ったまま、前のめりに崩れた。
赤城と瀬尾は顔を見合わせた。一瞬の沈黙。それから互いに背を向けて、別々の出口から倉庫を出た。
戦争の準備をするために。笹原が命をかけて守ってきた秩序が、倉庫の扉が閉まる音と共に終わった。
笹原辰造は倉庫の中に残された。パイプ椅子の横。コンクリートの床。潮の匂い。
翌日、夜漏守の連絡員が倉庫を確認し、笹原の遺体を回収した。
連絡員は笹原の内ポケットから手帳を見つけた。革表紙の古い手帳。角が丸くなり、背が割れかけている。三十八年分の仲裁記録がこの一冊に収まっていた。
最後のページに、今日の仲裁の記録が書かれていた。
「案件248。オブシディアン対星流会。港湾倉庫使用権。不調」
その下に、小さな文字で。
「双方とも、最初から戦争がしたかった。俺が止められる話じゃなかった。でも座らなければ、仲裁人じゃない」
殉職報告書 第18号 氏名:笹原辰造(71) 所属:夜漏守 非公式仲裁部門 死因:仲裁不調に伴う二組織からの同時攻撃 備考:仲裁成功率 247/248。手帳は仲裁部門が保管。 後任は未定。候補者なし。仲裁の技術を記した文書もなし